竜馬が名付け親となった海援隊士!

日本人として最初に咸臨丸太平洋を横断した海援隊士がいる。

 それが佐柳高次(1835年〜1891年、別名は前田常三郎・浦田常三郎・浦田運次郎・軍次郎)だ。
 瀬戸内海塩飽・佐柳島本浦(現・香川県仲多度郡多度津町佐柳)の人名・浦田音三郎の長男として生まれている。常三郎(佐柳高次)は嘉永二年十五歳の時江戸に出て、安政元年長崎に移り海軍予備伝習に参加し、翌年正式に水夫として伝習に参加している。
 長崎では、海軍伝習に一期から三期まで全てに参加し、勝海舟と知りあっている。万延元年には海舟や中浜万次郎等と共に、遣米使節随行として咸臨丸で、日本人として最初に太平洋横断に成功しサンフランシスコに到着している。
 帰国後、浦田常三郎は神戸海軍操練所の開所と同時に同所へ入所するが、その前に海舟の紹介で竜馬を知った。神戸海軍操練所が閉鎖後は、竜馬と行動を共にし、社中や亀山社中海援隊にも参加している。
 このころに竜馬の指示で、浦田常三郎から佐柳高次と改名している。つまり竜馬は名付け親だ。 ワイルウェフ号の難破事故では一命を取り止め、奇跡的に生還している。また、慶応三年4月23日の深夜に発生したいろは丸衝突事件では、当番士官として重要な役割を果たしている。
 維新後は函舘戦争に参加、その際の功労金を持って故郷・佐柳島へ帰島し、通商司の船や尾州脇一丸船長を務めている。
 明治六年、武曲庵の四女ミチと結婚。晩年は佐柳島で渡船業と酒屋を営み、地域の船頭頭として世話役をしたりして余生を送った。明治二十四年1月27日没している。 享年57歳。

 この人も波乱万丈の人生を送った海援隊士だ。基本的に船好きであることは間違いない!
(写真のどの人が佐柳か!?真ん中!?)