竜馬が遊びに誘った土佐藩士!?

竜馬はもとより海援隊士とも親交が深かった土佐藩士がいる。

 それが佐々木高行(1830年〜1910年、別名・三四郎、万之助、信頼)だ。土佐藩上士佐々木高順の長男。生前に父を失い、母に養育された。父の死後禄高は減少し、転々と住居を変え、貧窮の中で育ったようだ。
 文武を好み、国学を鹿持雅澄に剣を麻田勘七に学んでいる。25歳で江戸に出て大橋訥菴・安井息軒・若山勿堂らに師事して修業した後、藩の郡奉行・普請奉行・大目付を勤め、穏健な上士の尊攘派として活躍したが、反対派から排斥された。
 慶応2年山内容堂の命により太宰府三条実美を訪ね、土方久元に西国の情勢を聞き、帰国してから藩の倒幕運動の中心となり、藩主豊範夫人(長州藩毛利敬親の娘)の離婚反対論で竹槍先生の異名を取った。慶応3年大監察となり、英国水兵殺害事件の際に長崎で竜馬・後藤象二郎と相談してこの事件の対処にあたっている。また、藩の武力倒幕派大政奉還派との間にあって調停に努めた。
 竜馬や海援隊とも親しく、竜馬は女遊びに誘う手紙を佐々木に書き送ったり、下宿先にやって来ては自分の家のようにして宿泊するなどしていたようだ。佐々木はのちに「才谷と自分との間には、随分面白い事が多く、今思へば実に抱腹する事もあった」と回顧している。
 竜馬没後は海援隊を保護している。維新後は参議つとめ岩倉使節団随行。要職を歴任して晩年は皇女の教育や皇太子妃の選定などにあたっている。

 行動派で頭脳明晰、人付き合いもよかったようだ。写真を見るかぎりカッコイイねぇ〜