【今日の竜馬】竜馬暗殺のリーダーその後…

京都見回組による竜馬暗殺を指揮したとされる佐々木只三郎のその後は?

 慶応3年(1867年)末、大政奉還によって将軍の座を退いた徳川慶喜に従って佐々木只三郎は京を去り大坂へ下る。
 翌慶応4年正月には鳥羽・伏見の戦いが起こり、佐々木は京都見回組400人を率いて戦う。だが薩摩軍の最新鋭の銃器の前に敗れた。同月6日、敗走中に樟葉付近で腰に銃弾を受けて重傷を負った佐々木は、兄の手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)の陣で傷の治療を受けた。
 手代木は元気づけようと「お前もずいぶんと人を斬ったのだから、これくらいの苦痛は当然だろう」というと、只三郎は苦笑していたという。
 しばらくして佐々木は、旧幕府軍の大坂撤退により紀州へ移送された。その際、瀕死の彼は、紀州徳川家の葵の定紋を打った長持ちに入れられて紀三井寺に運ばれたらしい。同月12日、同寺において没した。享年36歳。

 新撰組の母体となった浪士隊募集の立役者・清川八郎を暗殺したのもこの佐々木だった。
(写真は佐々木只三郎の墓・和歌山※写真は削除しました)