【今日の竜馬】海援隊のその後…(その一)

■↓にも簡単に海援隊竜馬が亡くなった後のことを既報済みだが、調べてみるとかなりいろいろのことをやっているのだ!これは必読!

 竜馬が暗殺されたとき、海援隊士は上京中の組と、長崎に残留する一隊とに分かれていた。11月18日、上京組の長岡謙吉高松太郎海援隊士らは陸援隊と土佐・薩摩藩士らと合流。長崎の海援隊本部へは岩崎弥太郎が乗る空蝉丸が、12月27日に近江屋の凶変を伝えた。報告は土佐藩大監察の佐々木三四郎(高行)から、隊士たちにもたらされた。
 京都では海援隊と陸援隊が中心となって刺客探しが行われたが、これが後に新選組と激闘を演じる油小路天満屋」事件になる。
 明けて慶応4年正月、佐々木の命によって渡辺剛八管野覚兵衛海援隊士は、長崎奉行所を占領。海援隊奉行所貯蔵金を預かるとともに、奉行所付属の遊撃隊士を説得して長崎の治安にあたらせた。そして、佐々木が長崎裁判所参謀助役となり、赴任してきた参謀・沢宣嘉のもと市政の実務を2月26日に掌握した。…つづく……

 かなり活発に行動していることがわかる。この後、どうなるだろう!?(笑)。
(写真は、竜馬が33歳のとき。慶応3年1月長崎上野撮影局で撮影したもので、集合写真(海援隊士) 左から 長岡謙吉 岡本健三郎ら、真ん中が竜馬だ)