【今日の竜馬】最期の日に贈り物をしたオトコ!?

慶応3年(1987年)11月15日午後6時すぎ、海援隊士の宮地彦三郎、長岡謙吉が近江屋に寄った。だが、中岡慎太郎と竜馬は2階で密議中だったので、「一旦、帰宿して改めて訪問します」と一階から声をかけ帰った。 その後、この男が掛け軸をもって訪問。誕生日祝いのつもりだったのか、自筆の『白梅と寒椿』の絵を床の間に飾り、やがて帰っていった。その直後、刺客によって竜馬と慎太郎は惨殺される。

 この最後の訪問者が文人志士である板倉筑前(1822年〜1879年 別名:下坂文作、淡海槐堂など)だ。板倉は近江出身で、農業をいとなむ儒者下坂篁斎の子供。早くして近江を離れ、伏見街道薬店を営んでいる。 
 安政四年、醍醐家につかえ従六位下筑前介に叙任された。また尊王活動にも加わり文久二年には私財を投じて京都大仏日吉山文武館を建設、同所には竜馬をはじめ、武市半平太中岡慎太郎吉村虎太郎ら多くの志士らが出入りし、天誅組海援隊・陸援隊など諸隊に対しても資金援助を行った。
 慶応三年十一月十五日、竜馬と慎太郎が暗殺される当日に近江屋を訪ね、『白梅と寒椿』の画を描いた掛軸を竜馬に贈っている。この掛軸は暗殺のさい飛び散ったと見られる血痕が付着し、長岡謙吉の書した題字と共に今なお現存する(この掛け軸は、京都国立博物館に収蔵されている)。
 明治元年、醍醐家を辞し大津裁判所の参謀となり、続いて待詔院下局へ出仕。明治三年には内舎人権助をつとめ宮内中録へと転じたが同五年に退官、郷里で詩画を創作しながら余生を送った。

 いわゆる身内以外では、この板倉が最後に竜馬たちに会った人物だ。このため、贈った掛け軸が刺客たちに対するなにかの暗号ではないか、という憶測もある。事実はわからないが、志士たちへの高い貢献度を考えると、単なる竜馬の誕生日祝いではないかと思う。ただ、その掛け軸は残念ながら、わずかな間しか観賞されなかったのだが……