【今日の竜馬】長崎でのスポンサーは竜馬にぞっこん!?

■竜馬は支援者に恵まれているようで、どの土地でも厚いもてなしを受けている。長崎ではこの男の支援を受けていた。

 その男は小曽根乾堂1828年〜1885年) 別名は小曽根六郎、または小曽根栄。天保11年、長崎本博多町の豪商小曾根六左衛門の四男として生まれている。家業の質店で財をなす。書画月琴に優れていたという。江戸で福井藩松平春嶽幕臣勝海舟らの知遇を得て福井藩御用商人となっている。竜馬とは元治元年勝海舟長崎行きに竜馬が随行したときに小曾根家に世話になったので、そのとき知り合ったものらしい。
 乾堂は海援隊小曽根英四郎の兄でもあったので、家屋敷を海援隊本部として提供したり、亀山に家を借りるなど、海援隊と竜馬を全面的にバックアップした。
 誠実な人柄で竜馬とウマがあったのか、大極丸購入の際には竹中与三郎とともに準隊士として購入に尽力している。また洗練された二枚目だったらしく花柳界で随分とモテたらしい。
 安政六年に外国人居留地小曽根町を長崎浪ノ平海岸に造成している。明治4年、勅命により御璽・国璽を刻字し、外務卿伊達宗城の従って日清修好通商条規を浄書している。三条実美の注文印を刻し、宮中で娘きくと月琴の演奏を行なっている。しかし華々しかったのはこのときだけで、竜馬の暗殺後は生きる張り合いを失ったのか、商いにも手を出さなくなり、明治23年5月、愛宕町愛人宅で寂しく生涯を閉じている。享年50歳。
 なお、小曽根家には春嶽・勝・竜馬らの手紙が行李一杯に伝わっていたそうだが、ネズミに齧られたため、多くの手紙を焼却処分にしたという(残念だねぇ〜)。

 よほど竜馬にほれ込んでいた人だったよう。長崎の料亭花月で遊んでいる竜馬と小曽根の姿が目に浮かぶようだ。
(→写真は長崎の『竜馬通り』。ふたりが歩いたかもしれない※写真は削除しました)