【今日の竜馬】海の藻屑に消えた海援隊士
■海運を業務にしていた海援隊だけに、海難事故はつきものであった。そのために船と運命を共にした海援隊士もいる。
そのひとりが池 内蔵太(1841年〜1866年、別名は池駒次郎・池敞など。変名は、細川左馬之助・細川鹿之助・細井徳太郎など)だ。
天保12年、藩用人池才右衛門の長男として城下西小高坂村に生まれている。剣を日根野弁治に、学は岩崎弥太郎について学ぶ。竜馬とは道場で出会っているものと思われる。
文久元年、江戸は安井息軒の門に学び、諸藩の志士と交流。同地では土佐勤王党の結成にも尽力し、これに血盟した。文久3年、定まり切らぬ藩論に失望心をだき、藩命による公務のさなか京都で脱藩している。
その後は長州に走り、外国船砲撃に遊撃隊参謀として参加を皮切りに、同年8月17日の天誅組大和挙兵の洋銃隊長、禁門の変と戦火を潜り抜け、再び長州へ戻っている。
慶応元年閏5月に竜馬と再会し、翌2年の社中結成に参加する。しかしワイルウェフ号を長崎から鹿児島に向け搬送中の同年5月2日未明、五島列島付近で暴風雨に巻き込まれ、海難死を遂げる。享年26歳。
土佐には年老いた母と若き妻、そして生まれたばかりの娘が残されていたという。竜馬とは古くからの友人にあたり、竜馬は何度か池の家族にあて手紙を出している。
恥ずかしながら、このブログを書くまで、ずっと「イケウチ・クラタ」だと思っていた(もちろん正しくはイケ・クラタ)。しかし、この時代若い志士たちは短い人生を駆け抜けて行ったことを感じさせるねぇ〜