【今日の竜馬】竜馬には必要だった死の商人!

竜馬が船や武器の購入で必ず頼ったのがこの外国人だった。

 それが長崎観光で必ず行くグラバー邸の主人だったトーマス・B(ブレイク)・グラバーだ。天保8年6月6日、スコットランドのフレーザーバラで海軍大尉の五男として生まれている。
 安政5年、上海に渡り、ジャーディン・マセソン商会に入社、翌年9月19日に来日する。文久2年独立してフランシス・グルームと共同経営でグラバー商会を設立。当初は製茶と不動産を手がけていたが、日本の政情悪化を受け、本社より融資を受けて幕府や西南諸藩相手に武器・艦船を売り、巨万の富を得た。
 特に薩長との結びつきは強く、五代才助らの密航の手配をはじめ、竜馬の斡旋で薩摩名義の武器弾薬・艦船ユニオン号を長州に販売するなど薩長同盟締結に重大な役割を果たしている。のちにグラバーは「徳川幕府に反逆したなかでは自分が最大の反逆人だろう」と語っている。
 維新後、公卿に貸し付けた金の未回収と戊辰戦争長期化を見込んで大量輸入した武器をさばき切る事が出来ずに会社は倒産する。だが岩崎弥太郎の援助で、明治14年高島鉱業所の所長として辣腕を発揮(といわれているが所内で暴動なども起こっている)。その後は設立されたばかりのニホンビール(現キリンビールの経営に携わる。明治44年(1911年)12月16日、かねてから慢性腎臓炎の悪化のため東京・麻布富士見町の自邸で急死。享年73歳。

 オペラ『蝶々婦人(マダム・バタフライ)』のモデルになったり、日光の中禅寺湖ブルックトラウトというマスを放流してフライフィッシングを日本に紹介したのもグラバーだ。グラバーには息子・倉場富三郎がいたことはあまり知られてないが、富三郎は子供が出来ずにグラバー家は断絶している。