【今日の竜馬】血の気の多い海援隊士は!?

天満屋事件にも関わり、間違って薩摩藩士を射殺した血の気が多くて少しあわてんぼの海援隊がいる。

 それは沢村惣之丞(さわむら・そうのじょう1844年〜1868年、変名は、関雄之助・前河内愛之助・大原刑部・沢田尉右衛など)だ。ちょっとカブキ役者のような名前なので忘れない名前ではある(笑)。
 沢村は、天保14年土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市潮江)の地下浪人(郷士の資格を失った者)の家に生まれている。幼少時より本に親しみ、間崎哲馬に師事し学んでいる。その後寺で若党奉公をしながら土佐勤王党に参加(今でいう苦学生だねぇ〜)。
 文久2年、吉村虎太郎らと脱藩し下関の豪商白石家に身を寄せるが、武市半平太に情勢を報告するために単身帰国。同年3月24日には竜馬と共に宮野々関より再脱藩している。その後、竜馬と別行動をとり、長州で久坂玄瑞らと交遊。翌年京都潜伏中に竜馬と再会している。勧めもあって海舟門下となる。以後、神戸塾、亀山社中海援隊と行動を共にして竜馬を助けている。その一方で得意の英語と数学陸奥宗光らに教えている。
 竜馬の惨殺後の慶応3年12月7日の天満屋事件に参加、三浦休太郎を暗殺しようとするが失敗に終わる。翌慶応4年1月の長崎奉行所占拠の際に市内警備中に泥酔した上に抜刀して襲い掛かってきた薩摩藩川端平助を暴漢と間違えて射殺。この行動により、薩摩藩と軋轢を生じるのを恐れ、15日に切腹している。享年25歳。
 辞世の句は「生きて世に残るとしても生きて世の有らむ限りのいのちなるらめ」。

 この人もわずか25歳で亡くなっている。行動力があって、学問に強いという才能は生きていれば維新後活かされたに違いない。