【幕末関連】江藤新平はスパイだった!?

幕末維新の志士江藤新平(1834−74年)が、佐賀藩を脱藩した罪で謹慎中に、実際は藩主鍋島直正の意を受け、藩外で調査活動をしていたことを示す政策意見書「急務囈言」を、大阪市立大の毛利敏彦名誉教授が発見した。
 意見書で江藤は、幕府による「長州出兵」の失敗を鋭く予言。これまで謹慎中の動静はほとんど分かっていなかったが、毛利教授は、実態は藩主直属の特命調査役だった可能性もあるとみている。
 江藤は62年、28歳で脱藩し、京都で尊王攘夷運動に加わったが、数カ月後に佐賀に帰り閉居を命じられた。
 意見書は、64年9月に作成。江藤のひ孫の江藤茂国さん(73)宅(佐賀市)に所蔵されていた。藩主あてとみられ、「帰寧」(無事帰った)や「又々山(謹慎中の寺)ニ帰レリ」など、長期にわたり、繰り返し藩外での調査に当たった表現がある。
 意見書作成中の64年夏に動きが始まった幕府の長州藩山口県)への出兵については、「長防二州ノ大半ヲ討何ヲ以カ其成功ヲ期センヤ」と失敗を予見。当時の一般的な見方に反していたが、結果は翌65年に幕府が事実上敗退している。
 佐賀藩は長州出兵に応じたが、前面に出て戦うことはなかった。毛利教授は「強大な戦力を持ちながら戦いを避けたのは、意見書の影響ではないか」と分析している。
 また江藤は意見書で、海外の銀の方が国内の銀より取引上有利と指摘。藩主に外貨で艦船を買うように助言するなど、経済事情に精通していたこともうかがえる。(共同通信抜粋)

 竜馬と新平は直接関係があったという記録はないようだが、竜馬は30歳のこの時期はまさに東奔西走していたので、新平が密偵として活動してたことが確かなら、どこかで出会っている可能性は高い。
(写真は江藤新平が藩外で調査活動をしていたことを示す政策意見書「急務囈言」※写真は削除しました)