映画のモデルになった海援隊士!?

2002年公開になった映画『竜馬の妻とその夫と愛人』(東宝)のモデルにもなった海援隊士がいる。

 それは、菅野覚兵衛(1842〜1893年 変名は千屋寅之助、孝訓、孝義)だ。
 菅野は土佐国安芸郡和食村の庄屋、千屋民五郎の三男として和食村和食(現在の高知県安芸郡芸西村和食)で生まれている。文久元年従兄弟の千屋菊次郎と共に土佐勤王党に加盟した。
 翌文久二年、中岡慎太郎らと五十人組を組織し上京。同年十二月望月亀弥太と共に坂本竜馬と出会い、竜馬の誘いで勝海舟塾に入門した。以後、勝塾から神戸海軍操練所へと海軍術を修業し、竜馬と行動を共にする。
 慶応元年三月神戸海軍操練所の解散後、薩摩を経て長崎に出て、同年五月亀山社中の設立に加わる。慶応三年四月、亀山社中が発展的に解散、海援隊が結成されるとリーダーとして活躍した。
 竜馬暗殺時は大坂薩万におり、訃報を聞き入京している。竜馬の死後の慶応四年三月、楢崎将作の三女で竜馬の妻・お龍の妹君枝と長崎で結婚する。竜馬とは義兄弟にあたる。戊辰の役には長崎振遠隊の幹部として、奥羽地方の内戦に参加する。
 明治初年、親友の元海援隊士・白峰駿馬と共に渡米し、アメリカ・ニュージャージー州ラトガース大学に留学した。明治七年帰国し海軍省に入り、艦政局運輸課長、横須賀鎮守府建築部長等を歴任、海軍少佐に任ぜられたが、薩長の出身者や他の主要な海援隊士に比べ不遇に終わり、同二十三年海軍省を辞職した。
 海軍に在職中の明治十年正月には、西南戦争勃発直前の緊迫した鹿児島へ単身乗り込み、磯の造船所の責任者として赴任し、西南戦争の導火線となった「火薬庫襲撃事件」に係わりを持った。 
 海軍を辞職した後、竜馬の北海道開拓の夢を実現するため、福島県郡山市の安積原野に入植、安積開拓に参加し厳しい自然環境の下で、二度に亘り開拓を試みたが志は成就しなかった
 のち海軍に復職したが、病を得て明治二十六年五月三十日没。 享年52歳。

 土佐人らしく剛毅で気骨のある人間性を竜馬に特に愛されていたようだ。また、竜馬の死後、お龍(義姉)の面倒を良く見ている。明治初年には、自身の郷里・和食村でほぼ半年にわたり面倒を見たし、その後もお龍が横須賀に腰を落ち着けると、なにくれと無く世話をやいているなど、優しい人でもあった。
(写真真ん中が菅野。ちょっとブレてる!?)