奇兵隊にも参加した海援隊士!?

竜馬の義兄とも関わりがあり、医者から志士、海援隊士、高杉晋作奇兵隊にもなった男がいる。

 それが、石田英吉1839年〜1901年 別名は息吹慶吉・息吹敬良・息吹周吉)だ。
 石田は、土佐国安芸郡中山村(現在の高知県安芸郡安田町中ノ川)の医師、伊吹泰次の長男として中山村中ノ川に生まれた。子供のころから優秀だったので、安田の高松順蔵高松太郎の父)に学び、その後永七年郡奉行所に併置された藩校・田野学館に入学、また竜馬の義兄である高松順蔵にも医術を学んでいる。
 文久元年医学を修めるために大坂に出て、蘭医の大家・緒方洪庵の門に入っている。
 同二年上京して勤王の志士と交わり、文久三年には吉村虎太郎らと天誅組の挙兵に参加した。(このころから道がずれていった)。高取城の砲撃では戦功をたてたが敗れて、重包囲網を突破し長州に逃れて、翌元治元年の禁門の変では忠勇隊に属して戦い、重傷を負って再び長州に逃げた。そして慶応元年の幕府の長州再征に際しては、高杉晋作率いる奇兵隊に参加して活躍している。
 翌二年の六月、小倉口攻防戦では竜馬を助けて、ユニオン号に砲手長として乗り込み、船将の菅野覚兵衛らと協力して小倉藩門司陣地を砲撃し、戦果を挙げている。(砲撃手として石田はかなりの腕前があったようだ)。
 竜馬とはこのとき共感して、奇兵隊を離れて亀山社中へ参加している。慶応三年四月に海援隊が結成されると、亀山社中に引き続いて是に参加し陸奥陽之助らと貿易、海軍の事務に尽力した。(デスクワークも得意だったよう)。また、イカルス号船員殺傷事件のときには隊務の為薩摩にいた佐々木栄を龍馬の要請により迎えに行っている。
 竜馬の暗殺後、長岡謙吉と共に瀬戸内海諸島の鎮撫に力を尽くし、その後長崎に出て海援隊長崎在住派幹部・菅野覚兵衛らに合流した。
 やがて長崎で組織された遊撃隊の御用掛かり、そしてそれが振遠隊に改編されると軍監に任ぜられ奥羽に向かい、奥羽鎮撫総督府参謀に列し秋田方面に出征して各地に転戦した。
 維新後は新政府に出仕し、明治二年の長崎県小参事を振り出しに、秋田縣権縣令、長崎縣令、千葉縣知事、そして明治二十五年十一月から、三十年四月まで高知県知事を務めた。明治二十三年には陸奥宗光農商務大臣の下、次官を務め貴族院議員を務めている。
 明治三十四年四月八日没。 享年63歳。

 頭脳明晰で、砲術にも長けて、行動力もあると文武両道だったのが石田である。多くの戦いにも参戦しているにもかかわらず命を永らえているのも幸運の持ち主なのだろう。