志士→裁判官→商人→先生と波乱万丈の人生を送った海援隊士

竜馬もほかの海援隊士も普通の人生ではない人が多いが、彼ほど自由な生き方をした男はいないかもしれない。

 それが安岡金馬(1844年〜1894年 別名は安岡忠綱、変名は安並直樹・平安左輔・高山喜一郎)だ。
 安岡は、土佐国安芸郡馬ノ上村(現在の高知県安芸郡芸西村馬ノ上)出身で、当時の福井村庄屋安岡忠郷の二男として天保十五年4月2日、福井村(現在の高知市福井)で生まれている。
 その後、奈半利浦に移住し、土佐藩の郡庁・田野学館で学び、同じ学校の中岡慎太郎石田英吉(↓)らと知り合う。後に父忠郷は一旦和食郷・馬の上村の庄屋に復帰し、金馬も戻っている(要するにええとこのボンボンやね)。
 文久二年19歳の時、文武修業の許可を得て単身江戸に行く。翌文久三年1月、同郷で親戚関係にあった菅野覚兵衛の紹介により勝海舟の門下に入り、勝塾で竜馬と共に航海術を学んだ
 文久三年、土佐藩の命で金馬は、竜馬らと相談のうえ、国許の同志の鼓舞と藩状の把握のために、単身帰国した。だが航海術修業への思いを断ち切れず、元治元年一月、脱藩届けを藩に提出して、脱藩している。
 その後、長州藩に接近し、元治元年7月長州忠勇隊に加わり野戦砲照準係として禁門の変に戦うが、敗れて長州に逃れ、一旦三条実美等五卿に随行した。その後またもや長州軍に投じ、長州軍監の士官となり長州海軍局に所属し、幕府軍を相手に戦う。
 慶応三年24歳の時、海援隊に加わり、大極丸に乗船し国事に奔走した。
 竜馬の死後は海援隊を離れ独自の行動をとり、土佐商会の所有となっていた順海丸(元の大極丸)の船長となり、商業活動を行っていたが、肝腎の船が難破し失敗に終わっている。そして明治元年には琵琶湖に西洋型船を初めて浮かべている。
 維新後は大津裁判所湖水判事を務めたが、廃官後、神戸において米人ワッチと事業を計画、京都に外国人を案内した。ところがこの行為が当時の法に触れて、永禁固に処せられ高知で服役している。
 この後、赦されて明治六年海軍省に入り海軍小主計を拝命し、同七年には富士山艦に乗り組んでいるが、その後横須賀の海軍機関学校に移り教鞭を執り、明治初期の海軍創設に尽力した。明治二十七年2月21一日横須賀に没した。 享年51歳。

 安岡は、竜馬や勝海舟長州藩とそのときどきに自分の考えに近い環境を選んで、行動したり身を置いたりしている。自由な孤高の人ともいえるかもしれない。
(写真は安岡金馬)