竜馬に射撃を教えた海援隊士!?

竜馬やお龍にピストルの撃ち方を指南した海援隊士がいた。

 それが小曽根英四郎(1841年〜1890年)だ。
 長崎の書家小曽根六郎左衛門の四男。小曽根乾堂の末弟。高島秋帆に高島流西洋砲術を学び、鉄砲の扱いに秀でたために、竜馬と楢崎龍(お龍)へピストルの射撃法を教えたといわれている。
 小曽根家は長州、薩摩、福井の御用達の豪商で質屋の商いも行っていた。社中・海援隊を資金面で援助。慶応三年春頃、小曽根家の別邸に海援隊の本部を設けている。太極丸の「請人」として英四郎の名を見ることができるので、このころから海援隊に参加したと思われる。
 慶応二年8月、大坂町奉行から托された書簡を長崎奉行へ届ける途中、長州で幕府の間者ではないかとの嫌疑を受け抑留されたが竜馬の手紙などで事なきを得た。その手紙の内容は↓
小曽根なる者は長崎にては長州御屋敷鋪御出入の家なり。また、このごろ乙丑丸の用達を薩より申し付け候。内にて浪士など長崎に出ては、この小曽根を隠れ家と致し候ものもこれ在り、すでに私らも潜み居り候ことに候あいだ、悪心これ無きはこれをもって御察遣わさるべく候』。
 慶応三年4月、いろは丸に乗船。いろは丸事件に遭遇する。事件では竜馬の命で紀州藩の明光丸に乗り込み、長崎へ事件の第一報を伝えた。
 明治二十三年に愛宕町の別邸にて死去。享年50歳。

 維新後は、ほかの海援隊士とは違ってたいした仕事はしていなかったらしい。家の財産を使って長崎丸山町界隈で遊びまわった。なんかうらやましい(笑)。

(写真は竜馬愛用のスミス&ウエッソンのレプリカ※写真は削除しました)