脱藩してまで海援隊士になりたかった男!

砲術の名人で、操船も得意という海援隊士がいる。

 それが野村辰太郎(1844年〜1903年、別名・野村要輔・野村維章)だ。
野村は、土佐国土佐郡小高坂村(現在の高知市大膳町)で土佐藩士、白札格の野村亀四郎の長男として誕生している。野村家は砲術方の家柄で、万延元年父・亀四郎に従い江戸に出て、江川太郎左衛門の門に入り高島流西洋砲術を学んでいる。文久二年三月藩の砲術教授役となり、元治元年十月藩船南海丸に乗り込み長崎に渡航し、長崎の何礼之塾(がのりゆき・じゅく、れいしと読む資料もあり)で英語を学んでいるうちに、竜馬と知り合いになり、神戸勝塾への入門を誘われている。だが、さまざまなしがらみで果たせなかった。
 このため、野村は慶応二年6月に脱藩して亀山社中に参加している。『千里駒後日談』に「坂本清次郎とともに土佐を脱出してきた」とこのときの模様が記されてある。参加してすぐに、亀山社中が購入した大極丸に、何礼之塾で一緒に英語を学んだ白峰駿馬と共に、船長として乗り組んでいることから、操船技術に対しても竜馬の信頼は高かったに違いない。
 翌慶応三年四月に改編された海援隊に参加し、幹部として活躍している。
 慶応三年十一月、竜馬と中岡慎太郎暗殺の報を大坂で聞き他の海援隊士らと上京、葬儀に参列している。翌年慶応四年一月、海援隊による長崎奉行所の占拠に参加し、その際、海援隊士が薩摩藩川端平助を誤殺する事件があり、其の責を負うて切腹して果てた沢村惣之丞の最期に立ち会い、無念の別れ酒を酌み交わしたという。
 同年閏四月に海援隊は解散。同年七月には長崎振遠隊の幹部として戊辰戦争に従軍、奥羽鎮撫総督府参謀添役を勤め、奥羽方面で戦功を挙げている。
 維新後は新政府に出仕し、佐賀縣権参事や茨城縣権令を勤めたのち司法官に転じ、宮城・東京・大阪・函舘などの控訴院検事を歴任し、その後控訴院検事長にまで進んでいる。
 明治三十六年五月七日逝去している。享年六十歳。 男爵を授けられている。墓は東京都港区南青山二丁目の青山霊園内にあるという。

 野村は海援隊士出身としては立身出世した人。しかし、波乱万丈の人生であることはたしかだ。