海援隊一剣の腕の立つ隊士

海援隊士(亀山社中の時代に亡くなっているが)の中でもっとも剣の腕が立つといわれる男がいる。

 それは黒木小太郎(生年不詳〜1866年)だ。
黒木は、鳥取藩出身で、剣術を同藩の指南役だった北辰一刀流千葉重太郎に学んでいる。竜馬との最初の関係は『海舟日記』の文久三年二月の記録に残っているのが最初。これは重太郎の紹介によるものと思われる。文久三年の一月九日には勝海舟のもとへ入門した鳥取藩士たちを数名確認できることから、おそらくこの時に両者も顔を会わせたのだろう。
 とにかくこの黒木は剣の達人だったらしい。真剣でも平常の稽古と同様に、平然とした剣裁きを見せ、その胆力を竜馬は驚いて、兄権平や家族宛の手紙に書き送っている。
「…高泉と云、黒木半兵衛とて千葉十(重)太郎の門人にて、真剣勝負之時平日之稽古と違ハず。人是をおどろく。…」(慶応二年十二月四日付け竜馬書簡より)。
 文久三年一月頃、後に亀山社中で同僚となる高松太郎千屋寅之助らと勝海舟に師事し、竜馬と共に航海術の修業に打ち込んだ。その後、海舟の失脚により、勉学の場と住居を一挙に失い、竜馬と行動を共にした
 慶応元年閏五月に発足した亀山社中に参加し、中堅幹部として活躍するが、亀山社中所有の洋型帆船ワイルウェフ号の船将として乗り組み航行中の、慶応二年五月二日の早朝、五島列島中通島潮合崎沖で嵐のために難破し、副将の池内蔵太等十一名と共に、海の藻屑と消えた。
 慶応二年五月二日事故死。 年齢不詳。墓は長崎県南松浦郡有川町江ノ浜郷にある。
(写真は亀山社中の跡の碑※写真は削除しました)