海援隊の記録は任せとけ!

竜馬のさまざまな草案や海援隊が出した書物を形にしたのはこの男だった。

 それが長岡謙吉(1834年〜1872年、別名/今井橘生・今井純正・長岡敦美・長岡恂など)だ。土佐国高知城下浦戸町(現在の高知市はりまや町)で、天保五年医者・今井孝順の子として生まれた。河田小龍の門に入り幅広い知識を得て、やがて蘭学を志し奥宮慥斎の塾に入っている。嘉永元年二月大坂に出て儒医・春日簡平の門を叩き医術を修め、安政元年十一月土佐の大地震のあと帰国した。安政六年秋には、いち早く脱藩して長崎に出て、シーボルトに西洋医学を学んだ。
 その後文久元年十一月、キリシタン信仰の嫌疑及び脱藩の罪で、長岡郡鹿児村に蟄居となり、赦免後浦戸町の自宅で医業を開き、此の頃長女やすが誕生する。慶応元年に再び脱藩して長崎、上海などに行っている。
 竜馬とは親戚関係にあり、慶応二年に長崎で再会し、慶応三年に海援隊に参加している。海援隊約規の起草をはじめ六月には船中八策を起草し、イロハ丸事件の顛末書、そして十月の大政奉還建白書の起草にも参加して、その才能を発揮している。
 死後の慶応四年二月に同志を率いて、瀬戸内海の小豆島や塩飽諸島の動揺の鎮撫に務めた。そして四月には土佐藩より正式に新海援隊長に任命されている。四月十八日には新政府に海軍建設の意見書を建白したが、しかし閏四月には土佐藩の命により海援隊を解散し、六月には新政府の大津縣監察を命ぜられている。
 その後三河縣判事、民部省大録、大蔵省大録など諸官を経て、工部省一等出仕を発令されたが、病が重く一日も出勤することなく、明治五年六月十一日東京で死去。

 頭脳明晰で行動力もあったようだ。上海へは竜馬も行ったのではないかといわれている。