竜馬の凶報を素早く伝えた海援隊士

それが山本洪堂(別名・山本復輔、生没年月不詳)だ。

 山本は、亀山社中が結成されて間もなく参加したものと推測されており、記録上では慶応二年十二月二十日の、竜馬から伊藤助太夫宛の書簡が初出だ。その後海援隊に参加し、陸奥陽之助らと共に大阪に駐在して商事活動を行っていた。
 竜馬の惨殺を知った山本は同僚の佐柳高次と共に、慶応三年十二月十二日に下関に至り、凶報を伊藤助太夫や三吉慎蔵に伝えている。その後、一旦長府の三吉慎蔵邸に移っていた傷心のお龍を、長崎に迎えるのに一役買っている
 その後一旦長崎に帰り、慶応四年一月に勃発した長崎奉行所西役所占拠に参加して、他の在崎の海援隊士と共に行動し活躍している。
 そして元天領だった天草富岡代官所襲撃事件の鎮撫に、同僚の吉井源馬と向かい、見事に鎮圧に成功するなど活躍している。
 維新後は大阪に移り、医者になったとの説もあるが定かではなく、明治初期の官員録の明治六年六月二十日の項に、「開拓使・八等出仕・山本洪堂」とあり、新政府に出仕していたとも推測される。だが、その後の動向はわかっていない。

 実際の山本の活躍は、竜馬の死後が華々しいようだ。写真でみるかぎりなかなかりりしい(笑)