直情型の典型の長州藩志士といえば!?

それが久坂玄瑞(くさか・げんずい、1840年〜1864年、別名・秀三郎、誠、義質、義助)だ。

 久坂は、天保11(1840)年、長門国萩平安古八軒屋に次男として生まれる。安政元年に父と兄を亡くして、家督を相続する。松下村塾吉田松陰に師事し、思想的な影響を受けている。高杉晋作と共に塾ではその俊才を競った。のちに藩校明倫館に入り、医学および洋書の研究を行っている。安政3年、大老井伊直弼日米修好通商条約の無断調印、安政の大獄などの幕府の行いに悲憤慷慨し、皇威回復に挺身することを使命とした。以後、薩摩・土佐・水戸藩の志士らと交わる。尊王攘夷の急進論者だ。
 文久2年10月、幕府へ攘夷を督促するために勅使・三条実美姉小路公知らと共に江戸に入り、11月高杉と謀り、横浜の外国商館襲撃を企て、12月には同志を糾合して品川御殿山の英国公使館を焼打ち、攘夷の気勢をあげた。竜馬とはこの年、武市半平太の書簡を携え来訪、竜馬の脱藩に影響を与えたといわれている。
 文久3年、長州の外国船砲撃事件にも加担しているが、8月18日の政変後、長州藩の勢力が朝廷より一掃されると、彼は地下活動のため京都に潜伏する。翌元治元(1864)藩内の強硬論に対し、京都御所に迫ることで敵の術計に陥って叛名を負うのを恐れた玄瑞は、自重論を唱えた。しかし大勢に押され、7月18日ついに禁門の変に参加することになる。
 越後・会津・桑名・薩摩諸藩兵と堺町御門で奮戦。不運にも流弾を受け負傷、鷹司邸内において寺島忠三郎と共に自刃した。墓は京都市東山霊山、山口県萩市沖ノ町保福寺、山口県萩市椿東椎原東光寺、山口市二島朝日山招魂場、山口県下関市上新地町桜山神社にある。

 ?直情型?とタイトルに銘打ったが、たしかに攘夷のために焼き討ちをしたり、砲撃にも参加した時点まで、その通りだと思う。だが、英国の圧倒的な武力を知ったところで慎重になったように思われる。結局、禁門の変で命を失うことになるが、もし、彼が生きていたら、竜馬と共に維新後の違う新しい日本が築けたのではないかと思う。
 ところで、NHK大河ドラマの『新選組での久坂は、→の絵に近い俳優(名前は忘れた)を使っていてなかなかいい配役だと、いつも思ってしまう。