竜馬と長次郎がごタイメ〜ン!?

近藤長次郎

 長次郎といえば「饅頭屋の長次郎」がすぐに浮かぶ方はそれなりの竜馬フリークだと思う。
長次郎は近藤長次郎土佐の商家(饅頭屋)の生まれで、町人ながら聡明だったこともあって、江戸へ出て学問と砲術を学ぶことが藩から許され名字帯刀を藩主・山内容堂に認めらたほど。たぶん竜馬もよく知った仲だったらしくて、その後神戸海軍操練所で竜馬らと学ぶことになり、亀山社中の設立時のメンバーになっている。ところが、薩長同盟のための布石として竜馬の命令で長次郎は長州藩への武器の周旋や事件にもなる艦船の周旋者として担当した。その際に長州藩が支払った礼金を、自分の英国留学の資金にしようとしたことから、社中の仲間からこの点を糾弾され、長次郎は切腹。竜馬は当時は京都に居たため、その後長次郎の死を知り嘆き悲しんだとされている。
 
 そんな事件を知った上で(前置きが長すぎですが・笑)、(長崎新聞)によると、7月31日、竜馬の子孫である坂本家9代目当主の坂本登さん近藤長次郎のひ孫、川邉篤次郎さんが新しく再建された亀山社中記念館で初対面して、ご先祖を偲んだとか(インターネット版では動画がアップされています※たぶん掲載期間限定)。


【竜馬も長次郎とはきっと話したかったに違いないので、この出会いは感慨深いものがあると思う。もっともこの対面は、記念館のオープニングのために仕込まれたもの。ところで、このエピソードは亀山社中海援隊の大きな出来事のひとつだが、このあたりの感覚が当時の竜馬とやや離れていたように思う。竜馬と海援隊の関係が、竜馬の思い描いたものと次第に異なってきていたのではないだろうか。当時に志士たちのグループに近い感覚(武士的な感覚!?)をまだ隊のメンバーたちは持っていて、武士的な感覚をすでに脱していた竜馬にとっては痛し痒しの状況だったのではないかと思う。もっとも、竜馬は当時忙しすぎて、隊の中でもすでに社長というよりは会長のようなご意見番のような立場だったのかもしれないとも思う。みなさんはどう思いますか!?】