【今日の竜馬】天才・佐久間象山と竜馬

佐久間象山は竜馬が影響を受けたひとの一人。奇人タイプの天才だったという。

 佐久間象山(1811年〜1864年)は、松代藩で佑筆役頭をつとめる佐久間一学の子。身長が五尺七、八寸あったといわれ、当時の日本人としては背が高く、大きな体躯であった。少年期は、学問とはおよそ縁がない。乱暴で喧嘩好き、口論好きで血を流さない日がないぐらいの悪童ぶりだったといわれている。
 幼少より天才ぶりを発揮し、教えられてもいないのに3歳で易の六十四卦を諳んじることが出来たという。以後、漢学・和算朱子学・砲術・蘭学・西洋技術など数多くの学問を学び、どれも一流の学識をそなえていた。また広くヨーロッパの学問を学ぼうと努力し,成果をあげていった。苦心して洋書を読破し,自力で大砲を鋳造することに成功したこともあった。
 竜馬嘉永六年から短期間ではあるものの象山の私塾で砲術の修行に励んだ。
 同塾は免許制のない一風変わった塾。この塾には竜馬の他に勝海舟吉田松陰河井継之助橋本左内らがいた。
 象山はロシアのピョートル1世(大帝)の優れた数々の業績を知って驚嘆し,門弟の吉田松陰を外国に赴かせて,優秀な科学知識などを学ばせて,帰国後はこれを駆使して国内改革に役立てようと志したが,松陰の渡航はついに失敗し,象山もまた9年間も投獄された。
 象山は勝の妹・順を嫁としてむかえ、勝の雅号「海舟」は象山が書いた書の額からとったもの。嘉永五年、象山を後援した藩主真田幸貫の死後、藩内では孤立したが文久二年に土佐や長州から招聘の沙汰があり、文久三年には幕府の命をうけ上京。元治元年、政治的には公武合体の立場をとったため尊攘派河上彦斎らに白昼堂々暗殺された。
 象山はその天才ぶりから、尊大で人を見下すそぶりがあったといわれている。そのため、敵も多かったようで、死後、佐久間家は断絶している。

 天才はなかなか愛される存在にはなれないのは世の常のようだ。