【今日の竜馬】人斬り以蔵と竜馬

岡田以蔵(土佐)といえば、薩摩藩士の中村半次郎田中新兵衛と共に幕末の人斬りといわれている。その以蔵と竜馬の関係は?

 岡田以蔵は竜馬より3才年下で、天保9年、現在の高知市北部江の口村に生まれた。武市瑞山(半平太)に剣術を習い、その後江戸に出て、武市も学んだ桃井道場に入門。この時、江戸にいた竜馬と同じ宿をとっていたとか。以蔵は、文久元年(1861)にできた武市の「土佐勤王党」に入り、武市の忠実な部下となった。
 文久2(1862)年、江戸に出ると、尊王運動に反対する者に対し人斬りをはじめ、「人斬り以蔵」と人々に恐れられた。文久3年には、神戸海軍塾の竜馬と交流があり、竜馬は師でもある勝海舟の護衛を頼んだりしている。その際、海舟の暗殺を、以蔵が未然に防いだこともあった。
 文久3年姉小路公知卿が斬られると土佐藩から下手人の嫌疑をうけ、土居鉄三と改名したが、間もなく武市派の一人として翌元治元年(1864)捕まった。日夜拷問攻めにあったあげく、慶応元年(1865)7月11日斬罪に処された。以蔵28才の時だった。

 以蔵が殺した記録があるのは以下のとおり。
井上佐一郎/土佐藩の目付。酩酊させた上に絞殺した。
本間精一郎/越後脱藩浪士。幕府に寝返ったという嫌疑で、先斗町付近で斬殺。
猿(ましら)の文吉/安政の大獄で腕を振るった目明し。三条河原で絞殺して晒した。
池内大学/尊攘派の学者。安政の大獄時、幕府に自首して出たため、命は助けられた。これを変節として、大阪難波にて斬殺。
村山加寿江・多田帯刀/村山加寿江は長野主膳の愛人。やはり三条河原に生き晒しにした。多田は村山加寿江の息子。斬殺。

 竜馬と以蔵は同郷で歳も近いので当然顔見知りで、海舟の護衛を頼むなどかなり親しかったのではないかと思う。だが、海舟と同じで人斬りについては嫌悪感があったのではないか。個人的にはあまり好きな人物ではないが、その生き様は維新ならではの強烈な印象がある。
 
(→以蔵のお墓は高知駅の次の無人駅「薊野(あぞうの)」の近くで、あざみの保育園(高知市薊野1228−1)の西側の山中にある。案内板もなく見つけるのは難しいとか。だが花は絶えないという※写真は削除しました)