【今日の竜馬】性格は正反対!半平太と竜馬

■竜馬と武市半平太「アザ」「アゴとアダ名で呼び合う仲だったようだ。その半平太とはどんな人物だったのか?

 竜馬と半平太の出会いは、意外にも江戸だった。竜馬が初めて江戸へ剣術修行に出たとき、同じ土佐藩下屋敷相部屋になったことが始まりだ。半平太は竜馬より6歳年上、このとき竜馬は19歳、半平太は25歳だった。
 半平太は城下でも謹厳実直几帳面。竜馬とは正反対のタイプで、考え方においても事あるごとに二人は対立したが、なぜかどこかでウマが合い兄弟のように仲が良かったらしい。仲間内では、先生とよばれていた半平太だが、竜馬はアゴが長かったので「アゴ」と呼び、半平太も「アザ(既報済み↓)」と竜馬のことを呼んでいたようだ。

 武市半平太(号瑞山)は、文政12年(1829)土佐長岡郡仁井田郷吹井に生まれた。領知高51石余りの白札郷士郷士中の最上位)だった。「維新土佐勤皇史」には、「身長は2m近い長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」とか。ハンサムで、言説もさわやかで、人柄も優れている、ときているから、接する者はほとんど皆、彼に敬服したようだ(竜馬はちょっと別の見方をしていたようだが・笑)。

 桜田門外の変ののち、半平太は土佐藩の下級武士を集結させて土佐勤王党を結成した。竜馬も加盟するものの、早くから自らの土佐藩を見限り脱藩。
 竜馬の脱藩を知ったとき、半平太は「土佐にはあだたぬ (狭い土佐にはおさまりきらない)奴よ」と云ったとか。
 半平太はその後も土佐藩勤王思想で統一しようと活動を続けた。半平太は公武合体派の山内容堂の弾圧にあい投獄。結局、切腹させられ、慶応元年(1865)、道半ばにして36年の生涯を閉じた。

 頭脳明晰、容姿端麗だった半平太だが、志のためには暗殺もいとわなかったという点でいずれ竜馬とは袂を分かつ人物だったとはいえそうだ。
(→画像は半平太が描いた獄中での自画像)