【今日の竜馬】竜馬の盟友・慎太郎は裏方!?

■近江屋で暗殺されるときも一緒だった竜馬の盟友である中岡慎太郎はどんな人物だったのか?

 中岡慎太郎は、1838年4月13日、安芸郡北川村の大庄中岡小傳次の長男に生まれた。つまり裕福だったわけだ。3歳から勉学に励み、塾の代講を若くから勤めるなど秀才だったようだ。15歳の頃には坂本竜馬の長姉・千鶴が嫁いだ高松順蔵の高松塾に通っている。1855年武市半平太が田野学館に出張したときに、慎太郎は半平太の武術と人格に敬服し、半平太が高知に帰ると慎太郎も高知に出て、新町田渕の半平太の道場に入門した。
 慎太郎は、二十歳で結婚し、北川郷の大庄屋見習いとなり、大地震があった年には農民を自費で助けたり、藩とかけあったりしている(いいひとだぁ♪)。
 だが、1861年土佐勤王党盟約に署名したあたりから、人生が変わる。2年後の9月5日に慎太郎は、脱藩して長州三田尻(今の山口県防府市)の三条実美の元に走り、いよいよ倒幕運動に身を挺する。

 竜馬とは3歳年下で、小さいころから顔見知りではあったと推察されるが、秀才慎太郎と愚童ともいえる竜馬とはウマが合わなかったかもしれない。土佐勤王党に参加するあたりからは、お互いを認め合ったと想像される。
 竜馬と慎太郎は、その倒幕して新しい日本をつくるという目的は一緒だったが、その方法論としては、無血クーデター的な理想論をもっていた竜馬と相反していた。薩摩藩西郷隆盛と同じ?戦い?をもってそれを成し遂げるという現実論を慎太郎は持っていて竜馬の『海援隊』とは違い、軍隊的な意味の強い『陸援隊』を組織するなどしていた。
薩長同盟は、竜馬ひとりの手によってなされたと思われがちだか、実は、薩摩、長州を粘り強く説得していたのは、慎太郎だった。薩長同盟の成立は理論武装した慎太郎の弁舌による功績が大きい。竜馬は歴史の表舞台に出たが、舞台の裏方として、重要な仕事をしたのが慎太郎だったわけだ。1865年、『時勢論』を書いていることでも理論派であったことは汲み取れる。
 竜馬も慎太郎も結局は、 1867年11月15日京都近江屋で暗殺され、倒幕も維新も見ることはできなかった。

 中岡慎太郎というと、怖い顔をしている写真が有名だが、私が好きなのは→の写真である。この時代、竜馬もそうだが笑ってを見せる写真などはほとんどない。じつにいい顔で、友達になりたいぐらいである。竜馬はこの顔にみえる慎太郎の人柄に惚れていたのではないかと思う。