【今日の竜馬】竜馬の妻・お龍のその後…

■竜馬の妻であったお龍は、竜馬の暗殺後はどんな人生を送ったのだろうか?

 お龍は 天保12年(1841年)6月6日、幕末期の京都に生まれる。父は京都の町医者で楢崎将作といい文久2年(1862年)、享年50歳で没した。楢崎の死後は、貧困の中で暮らしていたようだ。竜馬との接点は、お龍の母親が竜馬らが住んでいた家のまかないをしていたことに始まるらしい。竜馬とお龍は何度か顔を合わすうちに、伏見の旅籠寺田屋への就職を世話した。
 慶応2年(1866年)の寺田屋の襲撃事件で竜馬がケガをしたのを看病したりしたのち、ひと月後の2月に結婚している。竜馬が暗殺されたのが慶応3年の11月なので、わずか1年9ヶ月間の結婚生活だったようだ。1867年9月、下関で竜馬に会ったのが最後となった。竜馬暗殺の知らせを下関の伊藤助太夫の離れである自然堂で受けたお龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供え号泣したといわれる。

 お龍は竜馬の没後3ヶ月間は、三吉慎蔵の世話になり、明治元年(1868年)、竜馬の高知の実家に世話になった。だが高知の水が合わなかったのか、1年ほどで京都に戻り、龍馬の墓のかたわらに庵室を結んで龍馬の霊を弔っていた。
 やがて西郷隆盛や旧友らを頼って東京に出た。東京では香川敬三水戸藩出身、陸援隊)らが持ち回りで世話をみてくれた。 しかしいつまでも彼らの行為に甘えるわけにもいかず、旅館の仲居などをしていたがその折用いていた変名が?つる?だった。
 明治8年(1876年)に旧知の大道商人西村松兵衛再婚し、西村つると名乗り、晩年は横須賀三浦郡豊島村の観念寺裏長屋で夫と暮らした。だが失意を紛らすため大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は竜馬の妻だった」とつぶやいたそうだ。貧窮の中で、明治39 (1906年)に66歳で亡くなった。
 は神奈川県横須賀市大津3丁目信楽寺(しんぎょうじ)にあり、「正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と記されてある。

 東京に出てから、没するまでのことは、小説『龍馬の妻』(集英社文庫・阿井景子著)に詳しいので、興味があるひとは読んでみるといい。
(写真は、高知の琴ヶ浜松原にある「お龍と君枝」の像。君枝はお龍の妹で、芸西村に嫁いできたのとお龍も滞在したのでこの像が建立された※写真は削除しました)