【今日の竜馬】竜馬は海軍操練所で習ってない!?

神戸海軍操練所といえば、勝海舟がつくった教育機関。竜馬もそこで船の操船を習ったといわれるが……。

 江戸時代の末期に当時の軍艦奉行並・勝海舟の建言で、神戸に設けられた幕府の海軍教育機関が『神戸海軍操練所』だ。
 じつは海舟はこの海軍操練所と平行して『勝塾』を創設している。それは竜馬や千屋寅之助安岡金馬高松太郎近藤長次郎などの若者たち数十人のための塾だ。海軍士官を養成する意味あった。最初は大阪にあったが、海軍操練所の近くに移設することにした。
 その場所が、神戸村生田神社馬場先、操練所から真北の、西国街道に南面した生田川との間の地、生田の森だった。文久3年9月のこと。名前は『神戸海軍塾』。当初は佐藤与之助が塾頭だったが、10月には竜馬が塾頭になっている。
 一方、海軍塾は、元治元年の2月に神戸村安永新田(小野浜・現在の神戸市中央区海岸通一帯で、生田神社馬場先海岸)に、総坪数1万7130坪を有する規模のものを完成させている。そして、竜馬を除くほとんどの「神戸海軍塾」の塾生が、この神戸海軍操練所に移り、航海術等の勉学に励んだ。
 順調な船出だった海軍操練所だったが、同じ年の6月に 池田屋騒動が起こり、さらに7月の禁門の変と、どちらも神戸海軍操練所の生徒(元生徒)が係わりっていたために、幕府内から勝追求の声が挙がり窮地に追い込まれる。そしてその年の10月には海舟は江戸に召還されてしまう。直接の原因は、海舟が土佐藩出身の高松太郎に命じて、観光丸乗組員用の防寒毛布を大量に購入したことに発している。この大量の防寒用具が、激徒や長州人の為に使用されるのではとの嫌疑を受けたらしい。
 海舟のいなくなった海軍操練所は、後任も立てたが、結局翌年3月廃止。同時に海軍塾も閉鎖されている。

 ということで、意外にも竜馬は神戸海軍操練所には参加していなかったようだ。どちらにしても、あまりにも短い期間の学校だった。竜馬にとっては、のちの海援隊の実務の基礎はここで養ったというべきだろう。
(→写真は、神戸海軍操練所寮舎。この操練所の跡には現在記念碑などが立っている。また操練所の鬼瓦は神戸市立博物館に保存されている。)