【今日の竜馬】海援隊は火の車だった!?

海援隊は竜馬のつくった商社。その内情はどうだったのだろうか?

 慶応3年(1867年)4月、亀山社中海援隊として生まれ変わり土佐藩後藤象二郎の管理下におかれ、竜馬は海援隊隊長に任命された。
 海援隊土佐藩に属していたが、その経費は海援隊海運業で得た利潤でまかなうことを原則としているという商社のようなものだった。海援隊政治・経済・語学・航海術などの学問の研究の場、つまり学校としての役割も果たしていた。これは神戸海軍塾の流れを汲んでいることにもよるだろう。
 竜馬は「私一人にて五百人や七百人の人を引て天下のお為するより、土佐二十四万石を引て天下国家の御為致すが甚だよろしく(自分が数百人の同志たちと天下のために働くより、土佐藩二十四万石を動かし、それを率いた方が天下国家のためにはより良いでしょう)」と姉・乙女の手紙に書いている。これは冒頭部分は土佐勤皇党のことをさしていて、土佐藩を動かすというのは、海援隊をさしているようにも読める。
 海援隊は藩からの自立を目指して活動していたが、台所は火の車だったようだ。財政的に困窮しており、竜馬は「去年七千八百両でヒイヒイこまりおりたれば」と姉・乙女宛の手紙で嘆いている。海援隊の性格は商社であったが、当時の社会情勢の中では藩の経済的援助なくして成り立たなかった。
 海援隊約7ヶ月と短い期間しか活動していない。慶応3年の海援隊結成から竜馬暗殺までのおもな活動は以下のとおり。
4月23日 いろは丸事件
5月29日 いろは丸賠償問題解決
6月15日 竜馬上京、「船中八策」成る
6月22日 「薩長同盟」成立
7月29日 長崎で英国人殺害事件。海援隊士に嫌疑がかかる
9月7日 海援隊士の殺害嫌疑が晴れる
9月15日 ライフル銃千三百挺購入、土佐藩へ廻漕
10月1日 浦戸出港、上坂
10月14日 将軍徳川慶喜大政奉還
11月1日 京都出発、越前福井藩へ向かい三岡八郎の財政策を聞く
11月5日 帰京、「新政府網領八策」をつくる
11月15日 竜馬、近江屋において中岡慎太郎とともに殺害される
12月7日 海・陸援隊士、天満屋三浦休太郎を襲撃
竜馬の死後、長岡謙吉海援隊隊長として活動したが、閏4月27日に解散した。

 わずか7ヶ月の間だったが、その功績は大きい。のちの三菱財閥の基にもなっているからだ。また、隊士の維新後の活躍も見逃せない。竜馬の先見性は高いといわざる得ないのだ!
(→写真は海援隊高知県坂本竜馬記念館で展示されている)