【今日の竜馬】後藤象二郎と竜馬

後藤象二郎土佐藩士で、竜馬より3歳年下。竜馬と共に行動して大政奉還を成功させている。その象二郎とはどんな人物だったのか?

 天保9年(1838年)、高知城下生まれ。維新後は政治家として活躍。義理の叔父でもある吉田東洋が開いた鶴田塾で、一つ違いの板垣退助岩崎弥太郎らと学んだ。
 土佐藩大監察として武市半平太率いる土佐勤王党の断罪を行う。吉田東洋暗殺された後、その経済政策を受け継ぎ、山内容堂のバックアップの元に土佐藩の産業を活発にし、殖産興業や西洋風の科学教育振興のための総合的施設「開成館」を創立、経営にあたって保守派の反対をおして斬新な施策や事業を推進した。物産の販売や対外貿易のための「土佐商会」(開成館長崎出張所・後の三菱)主任に岩崎弥太郎を登用している。

 竜馬とのかかわりとしては、竜馬が考えた「船中八策」をもとに、大政奉還山内容堂に勧めている。慶応3年10月3日大政奉還の建白書が容堂の名のもとに後藤によって幕府に提出された。その10日後、将軍慶喜は在京諸藩の重臣を二条城に招集。竜馬は登城する象二郎に次のような激励の手紙を送った。
 建白の儀万一行はれざれば、もとより必死の御覚悟故、御下城これなき時は、海援隊一手をもって大樹参内の道路に待ち受け、社稷のため不倶戴天のあだを報じ、事の成否になく、先生に地下に御面会仕り候
 (もし建白が受け入れられなければあなたは切腹するであろう。自分もその時は将軍を襲撃した後死ぬつもりなので、あの世でお会いしましょう)
 待つ竜馬のもとに後藤からの返書が届いた。
 「大樹公政権ヲ朝廷ニ帰ス之号令ヲ示セリ
 竜馬の唱えた大政奉還は実現したわけだ。
 また、竜馬が脱藩の罪を許されたのも彼の尽力による。

 土佐勤王党を弾圧し、基本的には竜馬もであった象二郎だが、そんなことはお構いなく竜馬の策に乗った。よくいえば時代の流れをみる能力に長けていたとはいえる。だが、悪くいえば日和見主義的な人物ともいえる。
 竜馬の周りでは「後藤、斬るべし」の声も上がったというが、竜馬は象二郎のそうした性格を見抜いて利用したといえるだろう。竜馬の器が大きいのか、象二郎が厚かましいのか、どちらにしても、竜馬暗殺後の象二郎は竜馬の遺産を十分に活用した人物であることは確かだ。