【今日の竜馬】母親のように慕った乙女姉さん

坂本乙女といえば、?坂本のお仁王さま?と呼ばれるほど体が大きく、おおらかな性格で竜馬の性格形成に大きな影響を与えたという。では、乙女姉さんはどんな生涯を送ったのだろうか?

 乙女は竜馬よりも3歳年上で、体が大きく5尺8寸(約174cm)、30貫(約112kg)もあり、男勝りの性格で剣術、馬術、水泳などの武術を好み、琴、三味線、一絃琴、舞踊、謡曲浄瑠璃などの遊技をこなす多芸の持ち主であった。
 竜馬は12歳で母親を亡くした後、この姉の手で育てられた。乙女は、夜中に竜馬を起こしては寝小便の世話をし、朝になると習字を学ばせ古今集新葉和歌集を読み聞かせ、午後には自ら竹刀をとって剣術を仕込み、竜馬を厳しく鍛えたという。
 安政3年、乙女は同じ町内に住む山内家の御典医岡上樹庵と結婚した。(竜馬はこの年の8月に二度目の江戸剣術修行に出ている)。安政五年に長男・赦太郎、慶応3年に長女・菊栄を無事に出産した。
 しかし、岡上家にはという姑がおり、家事に大雑把な乙女はこの姑と折り合いが悪かった。乙女の育った坂本家は裕福な家庭で家事などは女中にまかせて、遊芸を身上とし稽古事に専念するような家庭だったため、乙女は炊事や家事が苦手だったようだ。
岡上菊栄が乙女の生活を次のように語っている。

「毎日のおかずは尾頭付きの鯛が常で、それを裏表たべるのは武士の子にあるまじき下品な振る舞いと子らは教えられ、来客に出す菓子は紅白ニ品をそれぞれ別の高杯に盛り、白菓子を先に、次に紅菓子で三つ以上は食べてはならぬ、余った分は遊び相手の友達に与えるとい風で、家事一切数いる女中まかせで、稽古事と人とのつき合いに日を送っていた」

 その上、悪いことに夫の岡上樹庵は短気で、気に喰わぬことがあると髪をつかんで乙女を引きずり、殴りつけたりした(なんでも体格的には乙女の方が大きかったらしいけど、当時のオトコはこんなことは当たり前だったらしい)。また、岡上樹庵が女中との間に子をもうけたことなどもあって、乙女はこの岡上家にいることに耐えきれなくなり、坂本家に帰った。
 坂本家に戻った乙女は、以前竜馬の住んでいた坂本家の離れで暮らしていた。竜馬の死後、慶応4年の3月、竜馬の妻・お龍と同居したが、わずか数ヶ月で決別した。二人の性格が強かったことやお龍の非行に原因があったといわれている。
 晩年の乙女は「」と改名し、養子・坂本直寛(春猪↓と共にこの人も人がいいねぇ〜)に養われた。明治12年(1879年)8月、当時の土佐でコレラが大流行し、感染を恐れて野菜を食べなかったため壊血病にかかり急死した。享年49歳だった。

 やっぱり?竜馬の愛した女性は不遇に?という例に漏れないようで。でも、頑固な死に方で乙女姉さんらしい気がする(笑)。