【今日の竜馬】海援隊のその後…(その二)

■一応、(その一)よりお読みください↓m(_ _)m

 一方、慶応4年(1868年)上方(関西地方)では長岡謙吉が中心に、同志13人とともに小豆島の占領を企てる。続いて長岡は、征討総督の内意を受け、塩飽島海援隊士を派遣し、これら諸島の統治権を確保する。それぞれの島に民兵を編制、治安にあたらせた。
 同4年4月12日、長岡は土佐藩大監察の小南五郎右衛門から、海援隊に任命され公式に讃岐諸島ごよう取扱いを命じられた。さらに、5月になると倉敷県が設けられ、讃岐諸島はその管轄区となり、海援隊士の多くは県の属官となった。
 しかし1ヶ月後の6月3日、長岡が三河県知事(愛知県あたり)となって転出し、海援隊はここに事実上の解散となった。
 長崎では、同年閏4月27日、土佐藩参政・真辺栄三郎が佐々木と相談のすえ、海援隊士の渡辺、管野にあてて解散を告知。同時に両名は息つく間もなく、石田英吉野村辰太郎らとともに長崎振遠隊に合流、その幹部として奥州戦線を戦った。この長崎振遠隊は、奥州の戦乱の鎮静後、東京に凱旋すると明治2年(1869年)に解散した。

 と、めまぐるしく海援隊士たちは活動していたようだ。なんか映画とかドラマにできそうな話しではある。(笑)
(写真は長岡謙吉)