【今日の竜馬】長崎でのスポンサーだった女性!?

■幕末の志士たちもスポンサーなしでは、活動はできなかった。竜馬もそのひとり。長崎では大浦お慶さんと呼ばれる女商人にバックアップしてもらっていた。そのお慶とはどんな人だったのだろうか?

 お慶は1828年(文政11)、思案橋にほど近い長崎市油屋町の旧家に生まれている。 家は代々油屋だった。 しかしお慶の時代には家業は傾いていたらしく、 茶の輸出を始めたのも家を建て直すためだったとか。
 お茶の取り引きはイギリスの貿易商人ウィリアム・オールトとの間で行われた。 当初、オールトからの発注を受けて、お慶は一万斤(6トン)もの嬉野茶を手配し、アメリカへ輸出。 そうして嬉野茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、 お慶は30代にして茶貿易商として莫大な財を築いた。
 彼女はこの財を維新の志士たちの応援のために使った。若き日の坂本竜馬陸奥宗光など海援隊の面々、大隈重信松方正義岩崎弥太郎等、後の大物たちがお慶の家に出入りしたとか。
 ある時、竜馬は300両の借金の担保に海援隊陸奥陽之助(宗光・ 後の外務大臣)をお慶宅へ置いて帰った(陸奥にとってはいい迷惑!?)。お慶は彼に背中を流させたそうだ。
 志士たちの時代が終わって、お慶が43才の頃、熊本藩士の遠山一也が、お慶に取り入り、オルトとタバコの売買契約を結び、手付金 を受け取ると姿をくらました。遠山は輸入反物の相場に失敗し、借金返済のためにお慶をだましたのであった。保証人になっていたお慶は家を抵当にこの三千両、今で言えば三億円もの借財をかぶり、膨大な裁判費用まで払うことになった。結局、お慶は明治十七年に五十五歳で亡くなるまでに、この借財をすべてきれいに返済していたという。
 晩年の明治12年6月、お慶は長崎に寄港したグラント将軍から艦上招待を受けた。 将軍は元アメリカ大統領で国賓として来日していた。招待者は長崎県知事を始め長崎各界の名士だったが、お慶はそのなかの唯一の女性だった。お慶は美しく着飾り、金のかんざしを差して出席したという。
 お慶は翌年の明治13年3月、危篤状態のお慶さんの 元へ異例の電報による功労褒賞明治政府から伝えられたという最後のエピソードが残っている。

 すんごい女性だねぇ〜。たぶん小説にもなっているんだろうけど、朝の連ドラでやっても面白そう。