【今日の竜馬】陸援隊のその後……

陸援隊中岡慎太郎が組織した軍隊で、幹部は田中顕助(光顕)、木村弁之進。大橋慎三の土佐者3名と水戸の香川敬三であり、隊士の数は約70名いたという。竜馬と慎太郎の暗殺後、陸援隊はどうなったのだろうか?

 慎太郎の死後、田中顕助たち幹部が中心となって隊の指揮をとっている。11月28日には、十津川郷士と連携して紀伊方面の佐幕勢力を牽制するために、高野山出張の内勅を受けていた侍従・鷲尾隆聚(たかつむ)を奉じて高野山に移動。この際、土佐藩邸から無断で小銃100挺ばかりを持ち出している。
 鳥羽・伏見の戦いがあった慶応4年の正月2日には、錦の御旗と勅書を受領。正月の10日に高野山を下山し、16日に京に入る。このときの兵力は、陸援隊を含めて約千三百人ほどであったが、京に入って以降、十津川郷士たち以外はすべて親兵に編入される。陸援隊の隊としての活動は、その日をもって終わっている。

 陸援隊は軍隊だったために海援隊のように、自分たちで考えて行動することが不得意だったような印象がある。目だった行動がないのはそのためではないかと思う。
(写真は慎太郎の銅像・高知※写真は削除しました)