【今日の竜馬】歴史に埋もれた恩師!?

■竜馬が師と仰いでいる人物というと、勝海舟千葉定吉などが浮かぶが、じつはまだたくさんの人たちがいる。その中のひとりが、徳弘考蔵(1807年〜1881年)だ。

 徳弘考蔵は土佐藩で代々の持筒役をつとめる家の徳弘石門の長男として生まれた。土佐藩十三代目藩主山内豊熈の命により高島秋帆の高弟・下曽根金三郎から高島流西洋砲術を修行し、同時に南画を学んだ。
 天保十三年に下曽根から皆伝を許され土佐へ帰国。土佐では砲術と絵画の教授をおこなう塾を開き、のちに藩内の砲術芸家五家の内の一家に数えられている。
 門人帳に記載がある竜馬の入門は、安政6年(1859年25歳)からとされるが、以前にも考蔵のもとで砲術稽古に参加した記録(安政2年)もみられる。竜馬は砲術稽古でのちに奥義を許される人物たちと共に稽古へ参加していることから奥義に類するだけの実力を備えていたものと推測されている。ちなみに砲術稽古の記録は以下のとおり。この記録は安政2年のもの。

『十二斤軽砲(八丁)
一、打 二百七十目 坂本良馬
 矢 三度
 通 壱寸三歩
 七丁着』

「二百七十目」は二百七十目玉のことで、撃った弾の種類。
「三度」は砲身を向けた角度のこと。
「壱寸三歩」は火縄の長さで導火線の長さのこと。
「七丁」は着弾距離を表している。
 つまり、竜馬は、十二斤軽砲に一寸三歩の導火線を使って、二百七十目玉を三度(ほぼ水平)の角度で射撃。七町の距離に着弾させたことになる。「(八丁)」が目標距離だとすると竜馬の成績はマアマアといったところだろう。なお、のちに考蔵から砲術の奥義を授かる兄坂本権平はこの時「(十五丁)」の目標に対し「初着十四丁、少シ後切」という高成績を残している。
 ちなみに考蔵の門下には竜馬の他にも兄である坂本権平武市半平太岡田以蔵・門田為之助などがいる。なお竜馬は孝蔵の門以外にも西内清蔵や寺田左右馬のなど、複数の師のもとで砲術修行を行っている。ちなみに砲術は、鉄砲から大砲までの使い方をいう。

 竜馬が武器の使い方を習ったのは船で使うことを想定したのだと思われるが、実践で大砲を撃ったという記録はない。でも武器については興味があったんだねぇ〜
(写真はカノン砲※写真は削除しました)