【今日の竜馬】雅号・自然堂はこの男の家から生まれた!?

■竜馬の雅号である自然堂(じねんどう)は、この男の家の額の書から生まれたらしい。また、竜馬の暗殺時には、お龍はこの男の世話になり、自然堂と呼ばれる一室で過ごしていた。

 その男とは伊藤九三1830年〜1872年別名:伊藤助太夫・フォンデンブルグ)だ。
 天保元年12月19日、長府藩で大年寄を世襲する阿弥陀本陣・伊藤杢之丞の次男として生まれている。伊藤家では代々「太夫」もしくは「杢之丞」の名を世襲していたので、伊藤助太夫が本名。
 慶応二年暮れ、伊藤が本陣の月番のため下関の役所に出かける途中で、近くの旅籠に泊っている竜馬を見つけて、旅籠の主人に願い出て、連れ帰ったのが出会いとされている。その時の事を彼は人に「顔に七(洋)陽の星が降る人を見つけた」と語っている。また助太夫の名前を「昔の役者みたいな名前だから」との竜馬の忠告をうけ、通称を「九三」へと改めている。
 伊藤家にはには「自然堂」という書家岡三橋の額が掲げられた部屋があり、自ら「自然居士」と称していた伊藤だが、その部屋を竜馬に貸し与えた。竜馬は「自然堂」という言葉が気に入り、以後、自然堂という雅号を使うようになっている。
 竜馬と伊藤は親しく一緒に酒を飲むことが多かったらしく、印藤聿にあてた竜馬の手紙にも「今夜も助大夫とのみ呑ており申候」と書いている。ほかにも竜馬は伊藤家宅で歌会を開いたり、妻のお龍を伊藤方に預けるなどしている。明治5年、11月19日没。享年42歳。
 なお別名の「フォンデンブルグ」とは長崎のオランダ商館長から貰った名前だとか。

 下関のサポーターのひとりがこの伊藤だ。お龍を預けていたぐらいだから、かなり親密なつき合いだったと思われる。竜馬は伊藤宅ではリラックスしていたんだろうね。