【今日の竜馬】熱血漢で頭のキレル海援隊士!?

海援隊の中で、血の気が多くて、議論好き、頭がキレて竜馬が信頼していたというとこの男しかいない!

 その男は、陸奥陽之助(1844年〜1897年、別名は伊達牛麿・伊達小次郎・陸奥源二郎・陸奥宗光・他)だ。陸奥は弘化元年7月7日、紀州藩寺社奉行勘定奉行をつとめる藩士伊達藤二郎の六子として生まれた。嘉永五年藩内の政争によって父が失脚し、家族が離散すると江戸へ上り、安井息軒水本成美らの門に学ぶ。最年少ながら、先輩達との議論には絶対に負けなかったらしい。やがて吉原通いがもとで破門となる(カッコイイ♪)。
 竜馬とは文久三年の初頭ごろ京都にて知りあい、兄宗興の紹介で勝塾へ入門。神戸勝塾閉鎖後は長崎で竜馬ら亀山社中に参加し、社中や海援隊では商務担当として、その手腕を発揮した。慶応三年、「商法の愚案」と題する商事意見書を作成した。これは日本初の株式会社方式への提案で、竜馬はこれをすぐに採用した。
 竜馬は陸奥のことを「我が社中の奴等から刀を取り上げてしまえば、皆路頭に迷うが、唯一人陸奥のみは食うに困らない」と評している。
 慶応三年の竜馬暗殺後、これを紀伊藩・三浦休太郎らの陰謀であるとにらみ、同志らと天満屋へ斬り込みをかける。いわゆる天満屋事件だ。
 維新後は藩閥政府に対して対決の姿勢をとり、西南戦争にさいして立志社の政府転覆計画に加担したため禁固6年を受ける。5年後特赦で出獄。伊藤俊輔らのすすめもあって欧州へ留学し、第二次伊藤内閣では駐米公使、農商務大臣、外務大臣に就任、政界で活躍する。また日清戦争後の全権特使として三国干渉の対策に骨身を削っている。明治30年8月24日没。享年54歳。

 ふう〜。かなり中味の濃い人生を送った人のようだ。まさに波乱万丈である。しかもこれでまだ54歳!
(写真は陸奥陽之助鞍馬天狗のようなズキン姿(知ってる人は少ないだろうが)。ほんとに当時はこんな姿をしてたんだねぇ〜!?)