【今日の竜馬】竜馬の力の源は身分制度にあった!?

土佐藩上士、下士と厳しい身分制度があった。上士による下士切捨て事件が頻発したようだ。

 その事件のひとつが文久元年(1861年)に、上士・山田広衛が、高知城下の暗闇の夜、下士中平忠次郎と体が触れて中平が切られたことから始まった事件。忠次郎の兄である池田虎之進が現場に急行し、その場にいた上士ふたりを斬り殺した。このときも上士と下士は対立。結局、虎之進と弟(!?)の宇賀喜久馬(13歳とも19歳ともいわれる美少年)が割腹している。
 ちなみに下士の中にも郷士、用人、徒士、組外、足軽と区別がある。また土佐の郷士には、慶長郷士、百人衆郷士、百人衆並郷士、譲受郷士、幡多新規郷士、仁井田・窪川郷士民兵郷士、特殊登用郷士と別れていた。坂本家は新規郷士で竜馬もその身分制度に矛盾を感じていたようだ。
 その気持ちが文久3(1863)年6月29日乙女宛の手紙に現れている。『土佐の芋ほりともいわれぬ居候に生まれて、一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり』(芋ほりのような身分の低い郷士の二男坊という、兄に養われている身でも、やり方によっては国の改革はできる。)と云っている。これも「身分は低くても頑張ってやれば・・・」という気持ちの現れだ。
 『新しい国をつくる』と手紙にも書き、蝦夷(北海道)の開拓を実現したいと考えていたのも、そうした身分差のない国を作りたいという意味があったに違いない。

 革命というのは貧富の差、身分の差という差別から起こるもの。竜馬の人並み外れた働きの根底にも身分の差をバネにする力があったに違いない。
(写真は高知城の追手門(大手門)と天守閣※写真は削除しました)