【今日の竜馬】夢半ばで逝った海援隊士

海援隊の中でももっともキレもので学問に長じていたのはこの男だ!

 その男は近藤長次郎1838年〜1866年 別名は、大里屋長次郎・近藤昶次郎、変名は上杉宗次郎)だ。天保9年3月7日、城下水道町菓子商大黒屋伝次の子として生まれている。安政元年、藩絵師河田小龍に弟子入りし、万延元年に江戸に出て安積艮斎・手塚玄海らに学問を、高嶋秋帆に砲学を学ぶ。
 その後、両親の死去にともない一旦帰国し、再度江戸に上った文久二年、秀才ぶりに驚嘆した藩より苗字帯刀を許される。この年、竜馬と同じく勝海舟の勝塾へ入門し、在塾時の文久三年には佐藤与之助の仲人によって、大和屋徳と結婚した。慶応元年、勝塾閉鎖後も竜馬と行動をともにして亀山社中に参加している。
 慶応元年、朝敵となった為諸外国より武器弾薬の購入が出来なくなった長州藩に代わってグラバー商会より武器弾薬及び軍艦ユニオン号購入に尽力する。
 高杉晋作は長次郎に対する印象を「すこぶる才子の様に思われ候」と桂小五郎に伝えている。
 だが翌年1月14日、長州からえた謝礼金英国留学に利用しようとした盟約違反を問われ、沢村惣之丞ら同志に責められ切腹して果てている。享年29歳。竜馬は長次郎の切腹陸奥陽之助から知らされ、その死を惜しんだといわれる。

 幕末、多くの有能な若者が死んでしまったが、その中のひとりといえるだろう。もし長次郎が英国へ留学していたらと思うと残念でしかたがない。