【今日の竜馬】お互いを認め合った仲!?

■それは長州藩高杉晋作だ。親密な交際というほどは会っていないのだが、わずかな出会いでお互いを認めていたようだ。

 高杉晋作は(1839年〜1867年、別名は高杉和助・高杉東一、変名は谷梅之助・宍戸刑馬・谷潜蔵・他など)、天保10年8月20日長門国阿武郡萩城下呉服町にて高杉小忠太・ミチ夫妻の長男として生まれている。嘉永六年、藩校明倫館に学び、安政四年頃松下村塾に入門、やがて久坂玄瑞と共に塾の双璧と呼ばれる。剣術に力を入れ、のちに柳生新陰流免許皆伝を授かっている。
 安政の大獄で松陰が江戸伝馬町に投獄されると、書籍や牢名主への金品を差し入れ、懸命に尽くす。しかし安政六年十二月七日、松陰は斬刑に処されてしまう。 文久元年、世子毛利定広の小姓として出仕、この年幕府貿易使節団の一行に加わり、上海へ渡る。ここで外国支配のみじめさを見聞きして攘夷思想が高まったといわれる。そのため、後に品川御殿山の英国公使館焼き討ち事件等を起こし、更には身分を問わぬ実力主義の兵団奇兵隊を組織。俗論党に牛耳られた藩政を奪還する。
 竜馬とは薩長同盟締結前の1865年(慶応元年)に、下関へ行った時に初めて会ったと考えられている。そのときに後に寺田屋で襲撃に会ったときに使った、『スミス&ウエッソン第?型』という六連発の拳銃を晋作は竜馬に贈ったとされている。それは寺田屋の事件を竜馬が木戸孝允に宛てた手紙で 「かの高杉より送られ候ビストールを以って打ち払い」とあることから推測される。わずかな出会いでふたりはかなり打ち解けたと考えられる。
 第二次征長戦では、上海より購入した旧式戦艦オテントサマ号(丙寅丸)と竜馬率いるユニオン号(乙丑丸)で幕府艦隊を撃破している。
 しかし、無理が祟って持病の結核が悪化、慶応三年4月14日、勤王僧野村望東尼、愛人うのに見取られ29年の短い人生を終わっている。
 「面白き事も無き世を面白く」という辞世の句を残している。

 竜馬と晋作は型破りなところはかなり似ている。海援隊奇兵隊というそれまではなかった組織をつくったり、無理だといわれるようなことを成し遂げたりしている。ただ、晋作は長州の中級武士で竜馬は郷士、藩への考え方は大きく違っていたといえるだろう。ちなみに小生の?高杉竜馬?の名前は、この型破りなふたりから恐れ多くも拝借したものだ(笑)