【今日の竜馬】大政奉還を2ケ月遅らせた大事件!?

■竜馬もさまざまな事件に巻き込まれているが、この事件は竜馬も海援隊も幕府も土佐藩もイギリスも無駄な時間を過ごした事件だった。

 それは『イカルス号事件』(または『イギリス人水兵殺害事件』)だ。事件は、慶応三年(1867年)7月6日の夜更けに発生した。イギリス軍艦イカルス号の乗り組み水夫ロバート・フィードと、ジョン・ホッチングスの両名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺されたというのだ。
 この夜、海援隊菅野覚兵衛佐々木栄が事件当夜に、丸山の玉川亭に席を設けていた。犯人を目撃したという人は「白筒袖の男」と証言していて、海援隊士と同じ服装だった。事件の翌朝、海援隊所属の帆船「横笛」が出港し、是に続いて土佐藩の砲艦「若紫」が相前後して出港し、「横笛」は当日正午頃に帰港していた。そして、たまたまこのとき、英国公使・パークスが長崎にいたたため、事件を解決することに執着した。……という海援隊に不利な状況が重なってしまったわけだ。
 パークスの推理では、事件のあった翌朝に「横笛」が犯人を乗せて港外に出、続いて出港した「若紫」に海上で移乗させ、本国土佐に向けて航海し、逃亡させたものだ、としていた。
 長崎奉行所は、当初はパークスの主張は根拠が薄弱としていたが、これを聞いたパークスが激怒し、大坂に向かい幕府の老中・板倉勝静に話しを持ち掛けた。このため幕府も捨て置けずに、担当者三十余人を土佐へ出張させることに決めて、土佐藩からも在京の重役を同行させ、周旋をする事態にまで話が大きくなった。
 慶応三年8月6日パークスは軍艦・パジリス号で土佐の須崎港に入港。竜馬は8月2日に脱藩以来、土佐に帰国した。高知では板垣退助の率いる部隊が、戦闘態勢で待機するなど物々しい事態となった。
 談判は土佐藩船「夕顔」の船上で行われた。8月7日から行われた英国と土佐藩の談判では、高圧的な姿勢のパークスを相手に、土佐藩の代表である後藤象二郎は一歩も譲らず、土佐藩の主張を披瀝したという。
 結局、一回目の土佐での談判では決着が付かず、9月3日、舞台は事件の発生した現地である長崎に移され、談判が再開された。しかし犯人の特定には至らなかった。
 このときの様子をイギリス側の通訳として談判に立ち会ったアーネスト・サトウは、長崎奉行所に於ける竜馬の表情を、「さらに才谷氏(坂本竜馬)も叱りつけてやった。かれはあきらかにわれわれの言い分を馬鹿にして、我々の出す質問に声を立てて笑ったからである」と記している。
 ところが長崎奉行所などの調査で同月10日には別の犯人がいることがわかり、海援隊の嫌疑は晴れた。この事件のために土佐藩が提出するはずだった建白書が遅れ、結果的に大政奉還は2ケ月は遅れたといわれている。

 明らかに長崎奉行所の初動調査の不備と、イギリス人の思い込みで、竜馬と海援隊土佐藩は、とんだトバッチリを受けてしまったわけだ。
 ところで真犯人は誰かというと? 英国公使・パークスはかなりしつこい性格だったのか、維新後も明治政府に圧力をかけて真相究明を求めていた。その結果、明治元年8月、新政府は当時の外国事務局判事・大隈重信を長崎に派遣し、再調査を実施。真犯人は筑前福岡藩士の金子才吉であること、しかも本人は既に事件の当夜自殺していたことが判明している。
 お疲れ様!

(写真は事件当時の長崎出島)