【今日の竜馬】いろは丸事件の始末(前編↑後編あり)

■竜馬を語る上で大事件のひとつがこの『いろは丸事件』だ。日本の海難事件解決の見本ともいえる事件。

 竜馬は慶応3年4月初旬に海援隊を組織し、伊予大洲藩から「いろは丸」を借用し、海運業にのりだした。その矢先の4月19日、長崎港を出航し、大阪に向けて物資を輸送中、23日午後11時頃、岡山県六島沖で紀州藩の軍艦明光丸と衝突!もちろん竜馬は乗船していた。 これがいろは丸事件の始まり。明光丸は鞆の津へ向けて、いろは丸を曳航していたが、宇治島南4Kmの地点でいろは丸は沈没している。
 いろは丸は1862年建造のイギリス製商船(160トン)ですが、明光丸は1861年建造のイギリス製軍艦(887トン)だ。いろは丸の右舷から蒸気室の横腹に衝突。明光丸は、なぜか約90メートル後退して、再度いろは丸に突っ込んでいる。また、明光丸には見張りを立てていなかった。この二点が後々問題になってくる。
 で竜馬は、この後なにをしたかというと……
・事故当日の夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判。万国公法で決着をつけることを提案。
紀州藩明光丸、急用を理由に竜馬たちを残し長崎へ。竜馬たちは怒り、長崎へ追いかけて談判再開。
・航海日誌や談判記録を確保。
海援隊士に「一戦交える覚悟を」と檄をとばす。
寺田屋へ「ちょっと忙しくなるが心配するな」と手紙を出す。
・下関の伊藤助太夫へ「家には誰も近づけないよう見張りをよろしく」と手紙(お龍が『自然堂』に居た!?)。
・京都の出版元へ『万国公法』の印刷を依頼する。
紀州藩の船長らと交渉。
 だが、紀州藩は「大藩」ということで笠に着て威張っていたが、竜馬たちの言い分が当然なので、タジタジとなり、病気だと言って逃げ回っている
……ということで、少し長いので前編はこのヘンで(笑)また明日。
(写真は鞆の浦で談判した家。現在も実在する。※写真は削除しました)