【今日の竜馬】いろは丸事件の始末(後編)

いろは丸事件の顛末の後編。竜馬はこの事件の後始末をどうつけたのか?ワク*1ワク

 竜馬は、次のことを紀州藩の船長らに要求した。
・「土佐の連中を放ったまま出港したのは言語道断!」なので謝れ!
・1度ならずも2度も船を衝突させた責任はどうなるのか!?(このためにいろは丸は沈んだともいわれる)
・『万国公法』ではなく幕府の判断によって決着をつけるとは何事か!?
・長崎で、海難事故審判に経験の深いイギリスの提督に裁いて決着をつけようではないか!?
 ……と、しごく当然の要求だ。土佐藩も放っておくこともできずに、土佐藩から参政後藤象二郎ら応援に到着、交渉に加わっている。竜馬も応援に感謝。後藤がやかましく責め立てたので、紀州藩薩摩藩五代友厚仲裁を依頼した。
 ほぼ1ヵ月後の5月28日か29日頃、賠償を支払うことで落着している。竜馬はこの間もこの事件解決のために活動を続けている。
 まず、竜馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で、「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」という歌を流行らせた。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっけろと励ましに来るなど大いに効果を上げた。つまり世論操作と情報を広く一般的に伝えている。
 この結果、紀州藩から7万両という多額の賠償金を得た(当初、8万両だったが値切られたらしい・笑)。7万両のうちから4万2500両を藩船の損料として大洲藩に返し、海援隊には2万7500両海援隊に残ったことになる。2年後、徳川慶喜が水戸に落ちるときには、2万両程度しかなかったことを考えると、この金額は莫大な額だ。

 竜馬は結局、この金を見ることはなく京都で惨殺されてしまうのだが、このときの交渉術は、現代の危機管理の手本ともいえる。それは、「一戦交える臨戦体制を取り、世論操作と情報発信をして、身内の安全を確保している。そして、筋を通した交渉と強力な応援体制の確保、もっとも重要な交渉の結着点・結着対応などを決める」ということだ。勉強になるなぁ〜(笑)
(絵は、いろは丸。鞆の浦ではこの船を引き上げようという運動も行われている※写真は削除しました)

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