【今日の竜馬】竜馬の家督を継いだ男

■竜馬には子供がいなかったので、暗殺後の竜馬家は没するしかない。その家督を継いだ男がいる。

 それが、高松太郎(1842年〜1898年、別名は高松栄太郎、高松称太郎、小野淳輔、坂本直。変名は多賀松太郎)だ。土佐藩郷士高松順蔵の長男として生まれている。母は竜馬の姉・千鶴なので、竜馬からみればにあたる。父・順蔵や竜馬の影響で剣術に励み、安政二年、城下に出て竜馬と同じ日根野弁冶道場に学んでいる。
 万延元年には九州へ武者修行の旅に出ている。そのとき、西国遊歴中の武市半平太に出会い、のち土佐勤王党に加わる。文久二年、勤王党の一員として藩主を奉じて上洛し、同年の三条実美攘夷別勅使派遣にあたっては護衛役としてこれに随行した。
 文久三年、竜馬の誘いと藩命をうけ勝海舟の勝塾へ入門。その後、社中・海援隊と竜馬と行動を同じにしている。薩長同盟のときは近藤長次郎の補佐役をしている。またユニオン号や、大極丸の購入に際して敏腕を振るった。
 慶応三年11月15日に竜馬が暗殺された時は他の海援隊士と共に、大坂の土佐藩定宿「薩万」に駐在していて、翌日竜馬の危難を知ると、直ちに川船で京都に急行している。この頃から小野淳輔と別名を使っている。
 維新後は新政府に出仕し、明治元年閏四月函舘府が設けられると、函舘裁判所権判事として函舘の五稜郭に赴任し、清水谷公考総督に従い蝦夷地経営に尽力する。明治二年榎本武揚の軍に侵略されて一旦青森まで撤退、四月江差奪回戦に従軍し戦功をあげて再び函舘府に勤務した。
 だが明治二年十二月には権判事を免ぜられて土佐に帰国する。この時、かつての脱藩罪を問われて追い込み30日の処分を受けた。これは神戸海軍操練所時代に土佐藩から竜馬と共に帰国を命じられたが無視して脱藩扱いになっていたため。
 明治四年八月、朝廷の命に依って竜馬の家督を継ぎ永世15人扶持を給せられ、名を坂本直と改めた。家督相続後、東京府に出仕して典事を命ぜられ、更に宮内雑掌、舎人を歴任した。同二十二年キリスト教を信奉したことで失脚し、非職となって高知に帰郷し本庁筋の実弟坂本直寛宅に同居した。しかし晩年は不遇だったという。

 血筋ということでは、竜馬は竜馬一代で終わってしまっているのだが、坂本家としての竜馬の家は現在も続いている。これは高松太郎が跡を継いだからだ。
(写真は高松太郎。長髪でなんかカッコイイねぇ〜♪)