竜馬に温厚な人柄を愛された海援隊士

■竜馬に可愛がられ、いろは丸事件賠償金7万両を手にしていたが結局、竜馬には渡せなかった海援隊がいる。

 それが、中島作太郎(1846年〜1899年、別名は中島作次・中島信行)だ。中島は、弘化三年(1846年)土佐国高岡郡塚地村猿喰(現在の高知県土佐市塚地)で、郷士中島猪之助の子として生まれた。
 元治元年、武市半平太の投獄など公武合体をすすめる土佐藩の藩論に憤慨して同志細木元太郎・中島与一郎(従兄弟)らと脱藩。その途中、官吏に追われ与一郎を自刃のため失った。だがどうにか長州・三田尻へと下り、中岡慎太郎らに合流をはたす。
 慶応年間、長崎の竜馬らの社中に参加、隊士の中では陸奥宗光と共に最も若かったが、温厚なところを竜馬に愛された。
 慶応三年旧知の溝淵広之丞を通じて竜馬と後藤象二郎の会談を実現させた。また、大政奉還後、竜馬から頼まれて、いろは丸事件賠償金受取りの大役を果たしている。長崎にて紀州藩との代表と交渉、八万三千両を七万余両に妥協入手して京都に戻る途中、神戸で、竜馬の暗殺を知る。「龍の心事いささか継ぎ申度」と決心をかため、天満屋(紀州藩士の三浦休太郎および新撰組への襲撃事件)へは竜馬の洋服を縫い上げてもらい、これに参加したとも、あるいは「坂本の志を伸ばすべき」と主張し、斬り込みに反対をしたとも伝わる(結局どちらはわからない笑)。
 その後陸援隊に投じ高野山旗揚げに参加、明治以後は外国官権判事から出発し神奈川県令、元老院議官などを歴任。のちに特命全権公使としてイタリアに駐在。貴族院議員等を務め、明治32年大磯で肺病により没している。享年53歳。

 温厚な人柄だったらしいが、竜馬が惨殺されたときは隊士の誰よりも憤慨したといわれる。いい人を怒らせると恐いねぇ〜(笑)。
(写真は中年以降の中島だといわている。若いときの写真はふっくらとしていてかわいらしい笑)