竜馬暗殺時に真っ先に駆けつけた隊士!

慶応三年(1867年)11月15日の夜、竜馬と中岡慎太郎は刺客によって惨殺される。そのとき京都にいて、真っ先に駆けつけた海援隊がいる。

 それが白峰駿馬(1847年〜1909年 別名は鵜殿捨三郎・鵜殿鉄馬・鵜殿豊之進)だ。ちなみにもうひとりの隊士は陸奥陽之助
 白峰は越後長岡藩士、鵜殿瀬左衛門の三男として長岡城下で生まれている。白峰には二人の兄がいて、異父の兄鵜殿団次郎は父の死後、親代わりとなったため、この兄から文武を含む多岐にわたって影響を受けた。この長兄団次郎は33歳の時請われて幕府に出仕、蕃所取調所の教授役に推挙され、後に幕府御目付役にまで累進したほどの人物であった。
 文久二年江戸に出て、兄鵜殿団次郎の知己、勝海舟が頭取を務める軍艦教授所に入所、勝海舟の門下生の一人となる。
 その後元治元年四月に長岡藩を脱藩し神戸へ赴き、勝海舟神戸海軍塾に入塾、竜馬や菅野覚兵衛新宮馬之助近藤長次郎らと一緒に神戸海軍操練所で海軍術の修業に励んだ。
 慶応元年三月、勝海舟が失脚して、神戸海軍操練所が閉鎖されたのを機に、単独で長崎へ出て英語を学び、慶応元年閏五月には竜馬が中心となって結成した亀山社中へ参加する。その後、竜馬にその才を認められ、亀山社中から海援隊へ参加した。
 竜馬と中岡慎太郎が暗殺された時には、同僚の陸奥陽之助と共に竜馬の身辺警護のため京都の酢屋に逗留していたが、結局守ることはできずに、隊士としては暗殺直後に立ち会うことになる。
 維新後の、明治元年11月3日横浜を発ち、アメリカに留学にする。明治七年の帰国まで六年間、ラトガース大学やアメリカ合衆国ニューヨーク造船所で、造船・機械の分野に就いて学んだ。
 帰国後は、海軍省に籍を置き、明治九年永代橋の際で二百トンの白峰丸を建造、これが我が初の国産洋式造船と云われている。
 その後、官を辞し、明治十一年6月1日横浜神奈川青木町七軒町に、日本最初の民間造船所である白峯造船所を設立。一旦は軌道に乗ったかに見えた白峯造船所も、明治十八年2月倒産。明治二十八年6月大阪西区今木町で、そして翌年3月には広島県呉市吉浦に白峯造船所を再建している。その後も順調に業績を伸ばしていた白峯造船所だったが、やがて訪れる金融恐慌により明治三十六年7月事業中止になった。
 明治四十二年4月1日、生涯を閉じた。 享年63歳。

 竜馬は陸奥と共に白峰をかなり信頼していて、暗殺までの日々を同行している。白峰が造船業に執着したのも、竜馬の影響があったからだろう。