海援隊一のイケメン!?

竜馬に「君は男振りが好いから女が惚れる。僕は男振りが悪いが矢ッ張り惚れる」と云わしめた海援隊がいる。

 それは新宮馬之助(1837年〜1886年 別名は寺内新左衛門・焼継屋馬之助・新宮次郎・新宮駟)だ。土佐国香美郡新宮村(現在の高知県香美郡野市町新宮)出身。天保九年に寺内信七の二男として生まれた。幼時より絵がうまく嘉永六年16歳の時高知城下に出て、叔母の家(本丁筋二丁目に在り、屋号を布屋と云い旅館と焼継業を兼ねていた。)に焼継業(壊れたやきものに釉薬をかけ、再度焼き継いで直す商売)を手伝いながら、河田小龍絵と学問を学んだ
 このころ竜馬と出会い、やがて焼継業修業の目的で出国し、文久三年一月下旬には沢村惣之丞安岡金馬らと一緒に、竜馬の紹介で勝海舟の門下に入っている。
 以降、神戸海軍操練所、亀山社中海援隊の中心人物として竜馬と行動を共にしている。海援隊の中でも、できるヤツとして一目置かれていたという。
 新宮は色白の美男子で、何かのきっかけで上気すると直ぐに顔が紅味を帯びるところから、竜馬や同僚の海援隊士からは「赤づら馬之助」と呼ばれていた。
 亀山社中時代の慶應二年五月に発生した社中所有の洋型帆船ワイルウェフ号の遭難に際しては、同航していたユニオン号に乗り組み、海難の状況を同僚の菅野覚兵衛らと共に、鹿児島に滞在中の竜馬に報告するなどしている。
 維新後は浦賀の海兵団に所属し海軍大尉にまで進んだが、その後第一線を退き、明治二十年妻の郷里長崎市で、流行病のコレラに罹り没したと云われている。 享年50歳。
 また新宮の絵としては、十六才の時に描いたと云われる「劉備玄徳」の絵が、生誕地の近くの高知県香美郡野市町新宮、熊野神社に奉納され残っている。
 お龍は、新宮が女性のヌードを描いていたという話を伝えている。

 写真を見る限りはさほどハンサムとは思えないが、なんとなくオシャレな雰囲気はある(笑)。なお、新宮は維新後の記録がほとんど残っておらず謎が多い