?謎?の多い海援隊幹部!?

この人は資料が少ない。だが、社中から参加している海援隊幹部だった。

 それが渡辺剛八(1842年〜没年不祥 別名は大山重、変名は大山壮太郎・柴田八兵衛)だ。
 越前福井藩出身。社中の時代から参加していたようだが、名前が出てくるのは竜馬の「慶応二年7月28日付けの三吉慎蔵宛書簡」からだ。
 このころ、亀山社中は持ち船のワイルウェフ号を失い、亀山社中の困窮期で、竜馬も一時は解散を決意した程だった。先の書簡によると伊予大洲藩の依頼で、同藩のいろは丸乗組員として渡辺剛八を初め菅野覚兵衛橋本久太夫らを派遣し、急場を凌いだという。
 渡辺はこの後も、いろは丸との関係が続き、翌三年まで機関方を務めた。慶応三年四月に海援隊がいろは丸を大洲藩より借り受けることに成功し、渡辺も引き続き同船へ乗り組み、銃器商品を満載して長崎を出航、瀬戸内海を航行中の4月23日深夜、紀州藩船明光丸と衝突し、沈没する事故に遭遇した。いわゆるいろは丸事件だ。
 その後も事件解決のために行われた長崎での紀州藩との交渉には、同船の運航の当事者として出席し、解決に向けて力を尽くしている。慶応三年5月29日、竜馬から渡辺と小谷耕蔵に宛てた書簡では、紀州藩との交渉が成立し、そのことを隊士一同に知らせるよう依頼してきたもの。これからわかるように渡辺は留守がちな竜馬に代わって、幹部の菅野覚兵衛と二人で海援隊を仕切っていたようだ。
 また慶応三年7月6日に発生したイカルス号事件では、渡辺と菅野覚兵衛は共に最後まで自説を曲げず、長崎奉行所の役人を手こずらせ、胆力・気骨のあるところをみせている。
 慶応三年11月末、長崎で竜馬の惨殺を知った渡辺は激昂し、単身でも上京して敵討ちすると息巻いたが、佐々木高行に制止されて思い止まっている。その後、渡辺は慶応四年1月に勃発した長崎奉行所占拠事件で、沢村惣之丞と共に海援隊士を引き連れて参加している。
 また、慶応四年4月、菅野覚兵衛と楢崎将作の三女で、竜馬の妻お龍の妹起美との結婚に際し、仲人役を務めていたりする。
 その後閏四月になると海援隊は解散し、渡辺は長崎で組織された長崎振遠隊の幹部として、奥羽地方の内戦の鎮圧に向かった。この長崎振遠隊は渡辺をはじめ、菅野覚兵衛、石田英吉、野村維章らの元海援隊士が軍監となって率い、荘内・仙台連合軍との激戦に戦功を立てている。
 維新後、諸役を歴任して屯田事務局に出仕。班次である準陸軍大佐兼開拓少判官に任ぜられ蝦夷地開拓に従事した。だが、この後の消息はまったくわかっていない。没年も不明。

 竜馬の蝦夷地開拓の夢に自分の夢を重ねて渡辺はその地で果てたのだろう。海援隊幹部で、これほど資料の少ない人は珍しい。それだけ縁の下の力持ちに徹していたのではないだろうか。気になる海援隊士ではある。
(写真が渡辺剛八。握り締めた手と不安気な顔が笑える!?)