【今日の竜馬は?】いろは丸衝突事件勃発!

●竜馬33歳・慶応三年(1867年)4月23日●

・『いろは丸紀州明光丸讃岐箱ノ崎沖で衝突し、いろは丸は沈没』

 竜馬は慶応3年4月初旬に海援隊を組織し、伊予大洲藩から「いろは丸」を借用し、海運業にのりだした。その矢先の4月19日、長崎港を出航し、大阪に向けて物資を輸送中、23日(つまり今日)午後11時頃、岡山県六島沖で紀州藩軍艦明光丸と衝突!もちろん竜馬は乗船していた。 これがいろは丸事件の始まり。明光丸は鞆の津へ向けて、いろは丸を曳航していたが、宇治島南4Kmの地点でいろは丸は沈没している。
 いろは丸は1862年建造のイギリス製商船(160トン)で、明光丸は1861年建造のイギリス製軍艦(887トン)だ。いろは丸の右舷から蒸気室の横腹に衝突。明光丸は、なぜか約90メートル後退して、再度いろは丸に突っ込んでいる。また、明光丸には見張りを立てていなかった。この二点が後々問題になってくる。
 で竜馬は、事故当日の夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判している。

 竜馬が単なる志士ではないところが出たのが、この「いろは丸事件」だ。日本初の法による海難事故処理を行うことになる。
(写真は いろは丸沈没の場所。鞆にあるいろは丸展示館所蔵※写真は削除しました)