竜馬最後の日に話した海援隊士

竜馬と中岡慎太郎の暗殺の日、2階の竜馬と話した海援隊士がいる。

 それが宮地彦三郎(1839年〜1916年、別名・宮地亀吉、八木彦三郎)だ。高知城下新町田渕(現在の高知市桜井町)の御用人宮地六丞真景の二男として、天保十年十月十五日に生まれた。徳永千規や細川潤次郎らに学問を学び、俊才だったとか。その他にも書画をよくし、河田小龍とも親交があった。
 安政三年普請方に出仕し、のち下横目、監察役として京都藩邸詰めを命ぜられ、文久三年竜馬が脱藩の罪を許され、七日間の謹慎の間警衛し、その時から竜馬の影響で同年十月脱藩した。その後、公卿侍などをしながら志士活動を続けていたが、慶応三年六月長岡謙吉の紹介で海援隊に入っている
 竜馬と中岡慎太郎暗殺の当日、大坂出張から帰った彦三郎は、近江屋の一階から二階の龍馬・中岡と会話を交わし、出張の労をねぎらわれている。
 龍馬の死後の慶応四年一月に長岡謙吉を中心に海援隊を結成し、幹部として活躍した。小豆島や塩飽本島の鎮撫に尽力し、中でも特に塩飽本島の小坂騒動では竜馬の遺志を継ぎ、素早い対応で騒動を解決し善政を敷いている。
 こうした宮地ら海援隊士の行動に感動した島民が、明治三年正月二十日に八島神社を勧請し、その後八島神社を大山神社に合祀している。祭神は八木彦三郎真雄之命で、その後この八島神社は十三(土佐)神社と呼ばれ、現在も島民の手によって祭られている。
 その後、新政府に出仕し、倉敷縣大属、渡会縣の縣属などを務めていたが、明治七年病気を機に官を辞して帰国した。帰郷後は小学校で教鞭をとり、岩村、大栃、槇山等の小学校に勤務、教育事業に専念し教育者として生涯を過ごした。大正五年十一月二十五日没。 享年78歳。

 宮地の写真としては、宮司の姿をしたものなどもある。→写真は若いときの宮地。