イギリス行きを切望した海援隊士

海援隊士は海を舞台に活躍したいと思う男たちが集まっただけに、海外へ出たいと考えていた男も多かったに違いない。そのひとりが関 義臣(山本龍二1839年〜1918年)だった。

 関は、福井藩支藩・府中藩士山本五郎平の二男として生まれた。嘉永四年から福井藩の分家・山本匡輔より剣術・槍術・弓術・馬術・砲術を学んだ。
 その後、越前藩校明道館に学び、そこで橋本左内に才を認められ、文久二年江戸に出て昇平坂学問所に入り、元治元年には書生寮の舎長となる。秀才であったようだ。慶応二年一旦福井に帰ったが、藩論と志が一致せず、英語修業の目的で京都に向かい、脱藩する。
 慶応二年十二月長文の意見書を携え、長崎の竜馬を訪ね意気投合し、亀山社中に参加。竜馬はその意見書について「徹頭徹尾、我と同意見なり」と評している。その後海援隊士にもなった。元々、海外へで見聞を希望していたため、竜馬の了解のもとに慶応三年七月、グラバーの斡旋により便船を得てイギリスを目指した。
 ところが上海を経てシンガポールに向かう途中、台風のため香港沖で難破。土民らの襲撃をうけたが刀を振るって奮戦し、通りかかった通行艦に救助され長崎へと帰着した。
 維新後は官吏の道を歩むが、明治二年には武生騒動連座して、逮捕される。その後釈放されて、大阪府権判事を振り出しに鳥取縣権令、宮城控訴院検事長大審院検事、徳島・山形各縣知事を歴任している。明治三十年十二月貴族院議員勅撰、同四十年九月男爵を授与されている。大正七年三月三十日肺炎で逝去。 享年80歳。お墓は東京・青山墓地にある。

 この海援隊士も波乱万丈の人生。そのままイギリスへ行けたらどんな人生になっていたんだろう!?
(写真は関 義臣・山本龍二だ。別名の?龍?の字は龍馬の龍を取ったともいわれている)