竜馬暗殺の嫌疑で近藤勇を斬首した男

竜馬の暗殺は新撰組と決めつけ、戊辰戦争近藤勇が投降してくると、武士らしい死を認めずに斬首させた男がいる。

 それが、谷干城(たに・たてき1837年〜1911年、別名・守部、申太郎・清兵衛)だ。土佐南学派を再興した神道家・谷万七の長男として生まれる。安政六年に江戸へ出て安井息軒に学び、同時期の門下には池内蔵太河野万寿弥広沢兵助品川弥二郎らがいる。
 文久二年、武市半平太と知り合い、尊攘運動に走るが、慶応二年、藩命で長崎・上海を視察して攘夷論の限界を知る。翌年には竜馬と中岡慎太郎と出会い、薩土密約に参加したが、十一月十五日の竜馬暗殺では田中顕助らとともに近江屋で中岡の証言を聞き、新撰組の犯行と判断している。
 戊辰戦争では大軍監として活躍し、下総流山で近藤勇が投降してくると、「拷問にかけてでも竜馬暗殺を自白させる」と主張、また薩摩の有馬藤太の「敗軍の将とはいえ武士である以上、武士らしく死なせるべきだ」と言う意見に「錦旗の前に抵抗したから賊である。情けは無用」と反論し、近藤の身柄を板橋に送って斬首させた。
 維新後は兵部権大丞などをつとめ明治六年に熊本鎮台司令官に就任。明治十年の西南戦争では西郷軍の猛攻から熊本城を死守し新政府に貢献した。以後、軍高官や大臣などを歴任。欧化政策に反対する保守派として活躍した。
 また、今井信郎が「竜馬を斬ったのは俺だ」と近畿評論に手記を発表した際には「今井某は大嘘つきだ」と激しく非難した。明治四四年没。享年七四歳。